8
午前三時半、真夜中の思いがけない邂逅のあと。三人はそのまま場所をアロイスの私室に移していた。
寮監の巡回が多いのは主に休日と休日の前日ばかりで、普通平日には緩く、今日のような週のど真ん中なら尚更のこと。
寮監の巡回とかち合うこともなく、案外簡単に男子寮へ潜り込めてしまったことに面食らいつつ、ニコラはジークハルトに借りて被っていた外套を脱いで持ち主へ返した。
寮舎へ戻る道すがら、ニコラとジークハルトの二人は幽鬼のように青白い顔のアロイスから、事のあらましを全て聞き終えていた。
曰く、アロイスは廃墟から戻って来たその日の晩から、とある悪夢を繰り返し見るようになってしまったらしい───それは、ひたすら蜘蛛に追い掛けられるという、何ともゾッとしない夢。
しかもタチが悪いことに、覚醒し、再度眠るごとに蜘蛛のサイズは倍、倍、倍。もちろん追い掛けて来るスピードもそれに比例するという。
見始めた日からたったの三日で既にライオンサイズ、次に眠った時にはさらにその倍。
日本のイエグモであるアシダカ軍曹でさえ、目を剥くような素早さで走るのだ、シンプルに地獄のような話だった。
正直、今まで生きていることが奇跡に近い。ニコラは話を聞くだけでも鳥肌が止まらなかった。
その上、明晰夢───夢であると自覚しながら見る夢であるにも関わらず、その夢の中では現実より速く走ることも、空を飛ぶことも出来ないらしい。
「本当に身一つで逃げている状態かな……。何て言えばいいのか分からないけれど、夢の主導権は完全に何か別のものに握られている、そんな感じだよ」
アロイスはげっそりとした表情で零した。
公務にかこつけて王宮で眠ってみても、馬車の中でも、どこで眠ってもその夢から逃れることは出来ず。
挙句の果てには、夢の中で得た傷が、目が覚めると現実の体に反映されていたらしい。
何とも詰みすぎている状況に、ニコラも頭を抱えるしかない。
考えられる可能性は、あの廃墟から妙なモノをお持ち帰りしてしまったか、或いは……。
だが、廃墟で拾って来てしまっていたのなら、その時点で自分が何かしらに気付けそうなもの。ニコラは首を捻るしかない。
結局うだうだと考え込んでいても埒が明かないため、とりあえず夢絡みの怪異という点を鑑みて、寝具周りを検めに来たというわけだった。
カーテンを明け、ニコラは月明かりのもとアロイスの私室を見回す。
部屋の設えや調度品はさすが王族というべきか、ニコラのような下級貴族に与えられた部屋と比べると、かなり優遇されていた。部屋自体もニコラより断然広い。
手始めにぺらりと布団を捲れば、肌触りからして全く違い、ニコラは「おぉ……」と小さく呟く。
マットレス部分を指で押せば、ぼよんと跳ね返る弾力性。毎日この寝台で眠れるのは心底羨ましい。
続いてこれまた手触りのいい枕を持ち上げてはみるものの、これといって出てくる物は何もなかった。
アテが外れたかなと、無造作に枕をひっくり返せば、ふと枕の下になっていた面に僅かな凹凸があるのに気付いて、ニコラは「お、ビンゴ?」と囁く。
月明かりのおかげで陰影が濃く、目に止まったのだろう。
枕のカバーを外してしまえば、中から出て来たのは小さな紙片だった。
ニコラがアロイスを振り返るも、アロイスは訝しげにふるふると首を振る。どうやら彼にも心当たりはないらしい。
ニコラが折りたたまれた紙片を持って光源である窓際に寄れば、アロイスとジークハルトも近寄ってきてひょいと手元を覗き込む。
紙片の手触りに何だか既視感を覚えながら、そっとそれを開けば、中心に包まれていたのは黒くクシャッとなった何か。
「何だろ、このモジャモジャ、ってうわコレ! キモっ! 陰湿!」
黒いソレに目を近付けたことでようやくその正体を悟り、ニコラは思わず仰け反ってソレを放り捨てた。
「え、何?」
「何だったの?」
ニコラは彼らに比べれば身長もかなり小さい。彼らは幸運にもニコラの手元が遠く、その正体が分からなかったらしい。
ニコラは小声で叫んだ。
「蜘蛛ですよ! 干からびた蜘蛛の死骸! うわぁ、キモすぎて一周まわってなおキモい……うぇー」
ひと目で蜘蛛と分からなかったのは、死んで長い手足がクシャッと折り畳まれているためだった。知らず顔を近付けてしまったことを激しく後悔する。
ニコラは指先だけで包んでいた紙だけをそーっと拾い、ブンブンと振り拡げて内側を見、そして思いっきり顔を歪めた。
その紙片の感触に覚えがあるのも当然だったのだ。それはたった一時間前に触ったばかりのものと全く同じ手触りの、小さな羊皮紙だった。
裏面にはアロイスのフルネームと生年月日。表には肖像画が描かれており、そのアロイスの顔もまた、刃物で無惨に切り裂かれている。
「これ、もしかして入学の時の姿絵かい……?」
その紙片を手に取り眉をひそめるアロイスをよそに、ジークハルトはちらりとニコラの顔を窺うように見る。
誰がどう見ても、ニコラを呪った一件と手口が似ていた。言いたいことは分かるが、ニコラは静かに首を振る。
ニコラ自身、分からないことだらけなのだ。それに、ニコラの一件に関しては一応既に終わっている。今は余計な情報を増やさない方がいいだろう。
釈然としない様子であるものの、ジークハルトはおもむろに口を開く。
「ねぇニコラ。この蜘蛛の死骸もさっきの人形のように燃やしてしまえば、アロイスの悪夢も終わるのかな」
「……いいえ、残念ながら終わらないでしょうね……。何せ、寝る場所を変えても逃れられないんです。呪いはもう完全に怪異として、殿下の頭の中に入り込んでいるんでしょう」
ニコラは首を振って、ジークハルトの言葉を否定した。
「じゃあ、どうすれば……何か方法は無いのかい?」
縋るような目を向けてくるアロイスに、ニコラは頤に手を添えて歯切れ悪く口を開いた。
「呪いは基本、呪いの媒体自体を破壊か焼却がセオリーなんでまぁ、夢の中でその蜘蛛を殺せたらいいんでしょうけど……」
「アレを一人で? しかも素手で……? 冗談だろう……?」
アロイスは青白い月光のもと、窶れた顔にいかにも絶望してますと言わんばかりの表情を浮かべる。
絵面的に悲壮感が凄まじく、見ていられなかった。
確かに馬鹿でかい蜘蛛を素手で殺せと言われれば、ニコラでもそういう表情になるだろう。
さすがのニコラも罪悪感が湧いて、フォローを入れようとしてポロリと口を滑らせてしまう。
「武器は持つことが出来ると思います。……あとは、まぁ、私も夢の中には入れるとは……思います、ケド…………」
アロイスの顔は喜色満面に輝き、そしてニコラが尻すぼみになっていくにつれ、先程よりひどい絶望顔になってしまう。
意図せず上げて落とすという所業を行ってしまい、余計に罪悪感に苛まれながら、ニコラは結論を口にした。
「ぶっちゃけ足でまといが増えるだけ、なんですよねぇ…………」
燃え尽きて真っ白い灰のようになってしまったアロイスを痛ましいものでも見るような目で眺めて、代わりにジークハルトが口を開く。
「それは、ニコラはアロイスの夢の中に入れるのに、その怪異をいつものようには倒せない、ってこと?」
今までニコラが人ならざるモノを相手に遅れをとったところを見たことがないためか、ジークハルトはひどく驚いたように訊ねてくる。
その信頼は祓い屋の実績として誇らしいが、今回ばかりはおずおずと頷くしかない。
「……良くも悪くも、夢って言うのは夢を見る本人の意識がベースなんですよ」
人は全く見たことも聞いたこともない情景を夢に見ることは出来ない。逆に言えば、夢とは全て既知のことなのだ。
「今、殿下の夢はその蜘蛛の呪いに干渉されて、主導権を握られている状態だと思うんですけど、一番根底にあるのはやっぱり殿下の意識なんですよ。ちなみに殿下は、いつもどこを逃げ回っているんですか?」
ニコラの質問に、アロイスはのろのろと顔を上げる。
「…………王宮だよ。フィールドが広い上によく見知っている場所だから、今まで何とか首の皮一枚繋がってたんだ」
アロイスは萎びた声で答えた。
「多分、殿下が一番慣れ親しんでいて、勝手が分かる場所だからですね。フィールドが王宮なのは、殿下の防衛本能でしょう」
或いは、いつぞやの仕事をしなさそうな守護霊が、珍しく仕事をしているのか。
目を凝らしてみても、何処にも姿が見えない守護霊をニコラは思い浮かべ、それからニコラは目の前の二人の顔を交互に見た。
「殿下は既に、私の体力の無さとか、運動が出来ないことを知ってしまっていることを前提として考えてくださいね。そんな運動雑魚の私が殿下の夢の中に入れたとして、もはやライオンのさらに倍サイズの蜘蛛を相手に、何か出来ると思いますか……? 王宮という土地勘もまったくないような場所で……?」
ベッドに並んで腰かけたアロイスとジークハルトは、揃ってスっとニコラから目を逸らした。
失礼ではあるが、正しい反応だった。
「殿下は私に何が出来て、何が出来ないのかを具体的には知らないでしょう? 正直、私が普段使える術の類も、殿下の夢の中では使えない可能性があります。正直、殿下の夢の中に入った私は、ただの貧弱な一般人なんですよ。多分、何の役にも立てません……」
アロイスとジークハルトは、揃って項垂れた。
ニコラとしても当然、助けたい気持ちはある。だが、ニコラが夢の中に入ったところで、本当に何の役にも立たないのだ。下手をすれば、死体が増えるだけ。
ニコラもまた項垂れるしかなかった。
三人で悄然と考え込む中、ふとジークハルトがニコラを見上げた。
「ねぇニコラ。さっき、夢の中で武器を持たせることは出来ると言ったね?」
「それくらいなら、まぁ。でもそれだけじゃ……」
「じゃあ、ニコラではなく私をアロイスの夢の中に送り込むことは、出来るのかな?」
「「!」」
ニコラは目を見開き、アロイスは弾かれたように顔を上げた。
「出来、ると思います……多分」
「良かった。じゃあ、二人がかりでその蜘蛛を斬ってしまえば、悪夢は終わるね」
私なら何度か登城したこともあるし、少しなら土地勘もあるよとジークハルトは笑う。
覚悟を決めたような眼差しに、ニコラは何も言えなかった。
確かに、ニコラが夢を渡るより遥かにマシな案ではある。弱い人間が役に立たないならば、強い人間を加勢に放り込むしかない。
「殿下も、剣術は得意なんですか?」
「僕は人並みさ」
「ニコラ、謙遜だよ。アロイスの剣術の順位も十分、上から数えた方が早いからね」
ジークハルトは、こういうことであまりお世辞を言うことは少ない。ジークハルトがそう評するのなら、アロイスもまたそこそこの使い手ではあるのだろう。
「ジークやエルンにはいつも敵わないから、これでもコンプレックスなんだよ」
不貞腐れたように唇を突き出すアロイスは相変わらず顔色が悪いものの、断然生気が戻って来ていて、少しだけ安心する。
確かにウザ絡みは鬱陶しいが、別に死んで欲しいとまで思っているわけではない。
むしろ遠慮なく悪態をつけるその気安さは、歳の近い面倒な兄弟、くらいには思い始めてしまっている節さえあるのだから、ニコラも大概絆されている自覚はある。
ニコラはチョロい自分にそっとため息をついた。
「エルンストも一緒に来てくれたなら、心強いんだけれどね」
「エルンスト様が夢を渡れるかどうかは賭けですけど……でも、ダメ元で声は掛けてみてもいいかと思います」
「じゃあ、エルンにもお願いしてみるよ」
三人で顔を見合せ、頷き合う。
「とりあえず、殿下はこのまま気合いで眠らずに朝を迎えてください」
「私も朝まで付き合うよ。この時間まで起きているんだ。朝までも大して変わらない」
ジークハルトは遠くの山の端が白み出す窓の外を眺めて柔らかく笑う。
「私はいったん自分の部屋に戻って必要なものを準備します。殿下、放課後まで持ちますか?」
顔を覗き込んで目を合わせれば、アロイスは丸く大きな碧眼を悪戯っぽく細めて「勿論。耐えてみせるよ」と頷いた。
ニコラは再びジークハルトの外套を借り、頭からすっぽりと被ると二人を振り返る。
「模造刀ではない真剣を三振り、用意をお願いします。では、また放課後にこの部屋で」
そう言ってくるりと踵を返す。
「二人とも、本当にありがとう……」
後ろ手にひらひらと手を振って、ニコラは部屋の扉を静かに閉めた。




