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翌日の放課後、ニコラは一人でぶらぶらと校舎の裏手を歩いていた。
「先人たちは言いました。燃やせばたいていのことはどうにかなるのです。なんちって」
曰くありげな物は、燃やすに限る。
ニコラはお焚き上げが出来るような、人目につかない場所で、かつ物を燃やしても隠蔽が簡単で、燃え広がりそうにない場所を一人で探していた。
だが、それらを満たす場所は中々少ない。
燃え広がりそうな草木がない場所は、すなわち人通りのある所。そしてその逆も然り。
全ての条件を満たす場所は、案外見つからないものだった。
───ナァオ。
振り向けば、先日の茶会でニコラたちを威嚇した茶トラの猫と、バチっと目が合う。
二メートルも離れていない東屋で香箱座りをする猫に、ニコラはゆっくりゆっくりと近付いた。
目をじっと見つめるのは威嚇していると判断されるので、視線は外し外しに。
手を伸ばせば触れる距離に入っても逃げようとはしないのを確認して、意を決してそっと手を伸ばせば───残念ながら、今日も今日とてバリッと容赦なく引っ掻かれてしまう。
猫は立ち上がってちらりとニコラを振り返り、呆れたようにナーォと鳴くと、トテテッと走って行ってしまった。
手の甲に走る赤い三本線に目をやって、ニコラは「やっぱ駄目かぁー」とため息混じりに、がっくりと肩を落とす。
ニコラは猫に、蛇蝎のごとく嫌われる。猫だけに。
前世では見知らぬ野良猫たちでも自ら擦り寄って来るほどに懐かれる方で、実際かなりの猫好きだったのだ。それが今世になった途端にこの体たらく。
いつも触れる距離まで近付くことは許してくれるのに、いざ触ろうとすれば、必ず引っ掻かれてしまうのだ。
理由に思い当たる節は、一つしかない。
前世と今世の境目、それは彼女が贄として捧げられて死んだことだった。
噎せ返る血の匂いと獣臭。
今際の際のことは正直今でも夢に見ることがあるので、記憶が薄れるということはない。
「……多分、猫の血でも使ったんだろうなー」
部屋一面に書かれた血文字の光景を思い出す。あの血の量だ。相当の数を殺したのだろう。
猫は九つの命を持つ。贄としてのコスパも良く、悪魔への供物として使われることもしばしばあるというのは、かつて専門学校で学んだことだった。
「私だって被害者側なのに」
ぷくっとむくれて見ても、何も変わらないのだろう。
魂に同族の血臭が染み付いてしまっているのなら、ニコラが猫に好かれることはこの先もきっとないに違いない。
ニコラはしゃがみ込んだまま、猫が走って行った方角をぼーっと眺める。
猫好きからすれば、お猫様はそこに存在するだけで尊い。
だが、先日も数メートル先から威嚇されてしまったことを思い出して、ニコラはため息とともにしょんぼりと項垂れた。
「ぇ……あ、れ……? いや…………いやいやいや、そんなまさかね?」
ふと浮かんでしまった荒唐無稽な推測に、ニコラは目を見開き、呆然と呟く。
「いやでも、そう考えてみると……」
数式の答えを先に見て、間の数式がパズルのように埋まっていくような、そんな感覚。
逆説的に、今までに漠然と感じた違和感の正体が解けていってしまう。
「……うわぁ、確かめたくないなコレは。というか、確かめた所でどうだっていう話だしな、うん、忘れよう。それがいい」
立ち上がって、身体を捻ってポキポキと音を鳴らす。
そもそも、お焚き上げ出来そうな場所もまだ見つかっていないのだ。
東棟周りが駄目なら西塔だと方向転換をすれば、運悪く人とぶつかってしまう。
教材が入った鞄の中身もぶちまけてしまって、内心ではあーぁとため息を吐いた。
「すみません」
きちんと謝罪をしてから顔を上げる。どうやら連れ立って歩く男子生徒数名の端っこにいた男とぶつかってしまったらしかった。
男は「あぁ、いーよいーよ」と言いながら、ニコラがぶちまけた参考書を拾ってくれようとするので、ニコラも慌てて教材を掻き集めようとしゃがみ込む。
だが、男は拾った参考書の記名部分を指でなぞってから、オモチャを見つけたような口調で呟いた。
「へぇ、君がニコラ・フォン・ウェーバーなんだ?」
見知らぬ男子生徒に名前を知られるほど、ニコラは目立つようなことをした覚えはなかった。
なんとなく直感でぞわりと感じた時には、ふっと影が落ちて来る。
「おっ、この子が例の?」
「思ったより地味だな」
ニコラにかかる影は二つ三つと増えていき、顔を上げるのは不味いと悟る。
じりじりと後退るなか目に入る、新入生にしては使い込まれた革の靴。
おそらく上級生なのだろうと当たりをつけるが、ますます彼らがニコラの名前を知っているのか、絡んでくるのか分からない。
足を数えるに、男はざっと四人。
うち一人に腕を掴まれ、引っ張られるように無理やり立たされる。
身体を折って、ニコラの顔を下から覗き込んだ男は不躾にニコラの顔をじろじろと眺め、そして視線を舐めるように下へ下ろしていく。
品定めするような視線の不快さにぞわっと鳥肌が立って眉をひそめた。
「ふーん。アイツら身分の割に女の趣味悪ぃんだ?」
「その分テクニックが凄いんじゃねぇ?」
「それは期待出来そうだ」
「こんな人気のない所を歩いてるんだ、誘ってるんだろ」
下卑た笑い声を上げる男たちには品性の欠片もない。
下町寄りの口調から商人階級か、貴族だとしても下級貴族か。
そんなことを現実逃避で推察するが、それで現状が好転するはずもなく。ニコラはグッと唇を噛み締める。
「俺たちとも、ちょっと遊ぼうぜ。面貸せよ」
ゲラゲラと下品な男は笑う。
その遊びが普通の遊びではないのだと分からないほど、ニコラは鈍くもないし、カマトトぶるつもりもない。
「私の面、取り外し可能じゃないので貸せないです。他を当たって下さい」
身を捩って掴まれたままの手を振りほどこうとするも、残念ながらビクともしなかった。それどころか益々力を込められ、痛みに眉根が寄る。
それは、いよいよ本格的に拙いと感じ始めた時だった。
「何をしているのかな?」
底冷えするような冷ややかな響きに、ニコラの腕を掴む男の手が緩む。
男たちを怯ませたその声はしかし、何よりもニコラを安心させるものだった。
「何をしているのか、と聞いているんだよ。言葉を忘れてしまったのかな」
氷のようと表現するにもまだ生温い冷徹さを孕んで、ゆっくりと歩み寄ってくる凄絶な美貌の青年を前に、今度は男たちがじりじりと後退る。
綺麗過ぎて一切の隙がない笑み。青年が一歩踏み出す度に、威圧感は増していくようだった。
「ぅ、あ……」
「あ、アーレンベルク! ち、違う! こ、こいつの方がオレらを誘ってきて、ッ! あ、いや、お前だって王子やミュラーと一緒にお楽しみだったんだろう!? 俺たちだってッ!」
四人の中でもリーダー格らしい男は気圧されたように、無様にベラベラと喋り出す。
だがその不快な内容に、ニコラはひくりと頬が引き攣った。
ジークハルトはそれを聞き、一切の表情を消した。
形ばかり貼り付けていた冷笑さえもがすこんと抜け落ちた、能面のような無表情。
ニコラでさえ見たことのないその表情に、背筋を冷たいものが滑り落ちる。
「勘違いしているようだから言っておくよ。こちらのウェーバー子爵令嬢は、噂になっているような素行の人間じゃない。彼女の腹違いの姉がアロイス付きの侍女として王宮で働いていてね、先日は体調を崩して宿下がりしているというので、ウェーバー嬢とアロイスは一緒に彼女を見舞ったんだよ。エルンストはアロイスの護衛で、私は腕利きの医師を知っているから仲介しただけさ。噂は事実無根だ」
「……噂?」
ニコラには、ジークハルトの言うような腹違いの姉などいない。
だがジークハルトの真っ赤な作り話に出て来た名前を鑑みるに、ことの顛末に凡その想像はついてしまい、ニコラは舌打ちを飲み込んだ。
「学内での〝自由恋愛〟は好きにすればいいとは思うけれど、流石に同意のない強姦未遂は生徒会として見過ごせないね」
ジークハルトは侮蔑の色を含んだ紫水晶で男たちを冷ややかに睥睨する。男たちの顔色が変わる。
「後日、然るべき処罰は受けてもらう。今日の所は去るといい」
美形の怒りは大層に峻烈で、それが傾国級であればなおのこと。
気圧されたらしい男たちは舌打ちとともに、こちらを振り返ることなく慌ただしく去っていく。
気づかないうちに止めていた息が細く長く漏れ、震えてしまった手を隠すように、後ろ手でそっと拳を握った。
男子生徒たちの姿が完全に見えなくなってから、張り詰めていた空気がようやく緩む。
「ウェーバー嬢。経緯を説明したいから、少し時間をもらえるかな」
他人行儀の硬質な声に、ニコラは分かりましたとだけ小さく返す。
手近な入口から校舎に入り、階段を上がる。
二階の空いた教室に入り、座るように促されるので言われるがままに従った。
「今日の放課後にこの棟の使用申請は来ていないし、私が見て回ることになっているから生徒会の巡回もないよ。安心していい」
そう言いつつも、ジークハルトはいつものようにニコラに引っ付いては来なかった。
「……あの日、門限ギリギリに滑り込んだ時、誰かに見られていたんですね」
ニコラの言葉に、ジークハルトは静かに頷いた。形の良い眉が悩ましげに寄せられる。
「昨日と今日で、男子寮内にそういう噂があっという間に広がってしまってね。それを伝えようと、丁度ニコラを探していたんだ」
ジークハルトは噂の詳細をぼかすが、大方ジークハルト、アロイス、エルンストの三人を手玉に取るビッチ、あたりではないかと思う。
ニコラはアンネの一件で聞いた話を思い出した。
遊びと割り切った男女同士の、爵位を超えた〝火遊び〟ニコラは知らぬ間に、そういう弁えた遊びをする側の人間というレッテルを貼られてしまったらしい。
ああいう輩に絡まれるのも、理由が分かってしまえば納得というものだった。
「火消しは既にして回っているけれど、しばらくは好奇の目に晒されてしまうかもしれない。ごめん、ニコラ。本当にすまない……」
ジークハルトは心から懺悔するように、何度も謝罪を繰り返す。
ニコラはぽつりと呟いた。
「ジークハルト様のせいじゃ、ないですから」
神隠しの一件に、ジークハルトの落ち度はない。
それに、門限ギリギリの時間に滑り込んだ時、目視出来る範囲に生徒はいなかった。それは互いに確認したはずなのだ。
それでも目撃されていたのなら、よほど目のいい人間がいたのだろう。ジークハルト達だけを責める訳にもいくまい。
「ジークハルト様のせいじゃ、ありません。頭を上げてください」
「ニコラ……」
そっとニコラに手を伸ばしかけて、ジークハルトはその手をすぐに引っ込めると、ひどく不格好な笑みを浮かべた。
「ごめん。しばらく不用意に触れたりしないから。……あの男たちの前で、手が震えていたね」
隠したのに、目敏い。
今度はニコラが不格好な笑みを浮かべる番だった。
別に今までとて、ジークハルトに触られること自体を嫌がっていた訳ではないのだ。
ただ、人に見られて結果的に面倒なことになるのが嫌だっただけ。それだけだ。
引っ込められてしまったジークハルトの手を、ニコラは両手できゅっと握り込む。
「ニコラ?」
「……言わないと分かりませんか」
ニコラは不本意そうにきゅっと下唇を噛んで、目を泳がす。
「貴方なら、安心します。別に怖くなんかありません」
ジークハルトが、自身をあの野卑で粗野な連中と同列に扱うのは、何だか我慢がならなかった。それだけだ。他意はないのだ。
さらりとジークハルトの長い髪が頬に触れ、まるでカーテンのようにニコラを覆った。
視界いっぱいに銀色が広がる。いつもよりも幾分か掠れた声で、ジークハルトは頭上で囁いた。
「あの時……私のニコラに何をしているのかと、言えたら良かったのにね」
ジークハルトは縋るように、壊れ物をいだくように、ニコラの痩躯を抱き締める。
「ねぇ、貴族なんて辞めて、今すぐここではない所へ行かないかい」
「ウェーバー領の端っこでアプリコットを育てて、時々お忍びでやって来るアロイスを匿ったりするんだ」
ジークハルトはニコラの肩口に頭を埋めて、容姿に見合った美声で楽しげに夢物語を語る。
「身分なんてなくなれば、表立ってニコラを守れる。獣でも盗賊でも、何からだって守ってみせるよ。舞踏会に行くたびに生霊を大量に持ち帰って来ることも、もうないんだ。ニコラの手間もきっと減る」
ニコラが頷いてしまえば、きっと事はトントン拍子に運ぶのだろう。
ニコラの両親は、長年一途にニコラを追いかけ続けるジークハルトに対して好感度が天元突破しているので、駆け落ちといいつつ祝福して送り出すに違いない。
器用で要領のいいジークハルトは案外上手く農民だってこなすのだろうし、本当にニコラと死ぬまで添い遂げるのだろう。
それでもニコラが頷けないでいるのは、ひとえにニコラに覚悟が足りないからだった。
「ジークハルト様のは、ただの刷り込みなんですよ」
ニコラはそっと目を伏せる。
ジークハルトがニコラを慕うのは、ある種の刷り込みだと、ニコラはずっと思い続けている。
ひよこが最初に見たものを親と慕って懐くように、ジークハルトを助けた最初の人間が、たまたまニコラだったというだけだ。
「刷り込み、ね。最初はもしかすると、そうだったのかもしれないね」
ジークハルトは気分を害した様子もなく、薄く笑うとニコラの頬をするりと撫でた。
「でもね、ニコラ。刷り込みだけで十年も想っていられるほど、人間は単純な生き物じゃないんだよ」
キュウと切なげに細められた瞳に見つめられ、ニコラは口をギザギザに引き結ぶ。
そんな様子にジークハルトは苦笑して、そっとニコラから身を離した。
それでも、ニコラにはまだ覚悟が足りないのだ。
ニコラが関わらなければ、ジークハルトは一生を貴族のまま終えたかもしれない。
自分の干渉によって、他人の人生を変えてしまうことに対する責任を、ニコラはまだ持ち切れないでいた。
♢ ♢ ♢
枕を変えれば、場所を変えればこの悪夢も終わるかもしれない。そう思い、外泊届を出した。
それでも結果は変わらなかった。
蜘蛛は中型犬のさらに倍の大きさ。もはや直線で走っても逃げ切れず、無理やり小回りを効かせて走るしかない。
追いつかれる、頭に浮かぶのはそればかり。焦燥のあまり思考が上手く働かない。
石畳を弾く不快な爪音は、もはや背後まで迫っていた。




