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休日に休んだ気がしないためか、はたまた週の頭であるためか、ニコラはその日の午後の授業も身が入らずに、日がな一日をぼんやりと過ごした。
授業を終え、友人と喋り、夕食も入浴も済ませ、ぼんやりとしたまま期日が明日に伸びただけの課題を解くも、何となく頭はスッキリしないままだ。
一般教養としての数学を解きながら、ニコラはのろのろと万年筆を走らせる。
特に行き詰まっている訳でもないのに腕を組んでみては、ぼんやりと天井を見上げてみたり、肘をついてみたり。
高級品なだけあり手に馴染む万年筆をクルクルと回していると、脳裏に見慣れた銀色がちらついて仕方なかった。
ニコラは昼間の一幕を思い出す。
ジークハルトには今の所、婚約者はいない。だが、今年入学したニコラと違い、ジークハルトは今年度が最終学年だった。
卒業はそう遠い話ではなく、我儘を通して婚約者を決めずにいられる限界は、案外近い。
突き放せないでいるとはいえ、もう潮時なのだろう。
婚約者は、今日彼を取り囲んでいた女子アナみたいな一群の中からでも、それ以外からでも、自由に選べばいいとニコラは思う。
幸運にも選べる立場にいるのだから、愛想もない貧相な娘を追いかけることなど止めて、さっさと由緒正しく美人な令嬢と婚約してしまえばいい。それはどうしようもなくニコラの本心だった。
ただ一方で、ジークハルトに婚約者が出来てしまえば、流石に今までのように守ってやることが出来ないというのもまた事実。
ニコラ謹製の御守りなども、他の令嬢の手作りの品を持ち歩くなど、婚約者からすれば顰蹙もの。婚約者が出来てしまえば渡しにくいだろう。
生命の危機に陥れば自動で顕現する式神も渡してはいるが、もしもソレが婚約者と二人っきりの空間で発現してしまえば、目も当てられない。
流石に咄嗟の瞬間にジークハルトを守れるような、自立思考する式神は、自分の姿でしか作れないのだ。
まだ見ぬ婚約者の視点からすれば、いきなり出現して逢瀬を邪魔する不審者以外の何者でもない。
「本当に、どうしたものかねぇ……」
今までのようにズルズルと曖昧な関係を続けるどころか、決定的に関係性を変えなければならない時は、案外迫っているのかもしれなかった。
今日は三角のつみきのような形になって、ペタンペタンと机の上を転がるジェミニを手持ち無沙汰にこちょこちょと撫でていれば、部屋の扉がコンコンと叩かれる。
こんな時間に誰だろうかと振り向けば、壁掛けの時計が目に入る。時刻はもうすぐ午前二時を指そうとする時間だ。
こんな夜更けに部屋を訪ねてくるような約束はなかったはずだがと、ニコラは首を傾げる。
コンコンと、さらに強く扉を叩かれて、ニコラはふと気付くことがあり、扉に近寄る。
確かめるために、ドアは開けずに内側からコンコンコンコンとノックを返せば、もう一度コンコンと叩き返されて、ニコラは確信を持って眉をひそめた。
ノック音は、やけに下の方、足元から聞こえて来るのだ。
それだけではない。そのノック音はニコラが叩いた、ややくぐもった音よりももっと硬質な質感の音だった。
それは例えるなら、まるで陶器か何かで叩いているかのような───。
「ジェミニ、ちょっと外から回って何がいるか見て来て」
机の上の三角はきゅるんと回って鴉のすがたになったので、窓を開けてやる。
ニコラの部屋は角部屋になっていて、廊下の突き当たりには窓があるのだ。
そこから覗けば、ドアの外に何がいるのかすぐに分かるはずだった。
程なくして戻って来た鴉を迎え入れれば、鴉はしゅるしゅると解けてウィジャボードの上を跳ねる。
『おにんぎょう』
「まーじか」
ニコラは「だっる」と吐き捨てる。
陶器のような質感の音からして、ビスクドール人形か何かか。
そういえば、とニコラは完全に忘れ去っていた今朝方の、悪意ある手紙のことを思い出す。
アレも適当に処理しなければなぁーと、ニコラは顔を歪めた。
「その人形、自力で扉を開けられそうだった?」
ジェミニはNOの文字の上をころんころんと回る。
「そ? んじゃ、今日は放置で。そんなことやってる場合じゃないもんな……」
振り返れば、まだ白紙のページの方が多い課題が机の上に鎮座しているのだから、頭が痛い。
背後ではカリカリカリカリカリカリカリと戸を引っ掻く音が聞こえ始めるが、ニコラはもう振り向くことすらせずに「うっさい。明日相手してあげるから静かにしてな」と無視を決め込んだ。
♢ ♢ ♢
蜘蛛は眠ると必ず倍の大きさになって現れ、そして追い掛けて来た。
悪い夢が続くこともあるだろうと気に止めず、初日に何度も眠り直してしまったのが悪手だったのだろう。
今や中型犬サイズにまで大きくなってしまった蜘蛛の走るスピードの速いこと。
全力疾走で逃げる背後から聞こえて来る、石畳を蹴るカチカチカチカチカチカチという爪音が、ただただ気持ち悪くて、怖くて、不快でしかない。
息苦しさに目を覚ます。心臓が激しく脈打ち、全身から汗が流れて夜着を濡らしていた。
次に眠る時にはさらに倍になっているのだろうと思うと、ただひたすらに気が重かった。




