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「こんなものかな」
最後の一本を切り終えたジークハルトが立ち上がる。
未だ台座には太い蔦が絡まるが、蔦というのは案外繊維質で切るのにも労力を要するのだ。
これ以上はナイフより斧などで断ち切った方が早いだろう。
少なくとも女神像の本体は蔦も埃も払いきり、見違える程には綺麗になったのだから、この辺りで許して欲しいところだ。
供物には大地の恵みとして、果物と穀物で出来た菓子を台座に添え、ワインを周りの地面に注ぐ。
持って来た荷物の大半がなくなり、鞄は随分と軽くなった。
「あとは、また後日神殿に引き取りに来てもらいましょう」
「じゃあ、生徒会に神官の子息がいるから、私から伝えておくよ」
「よろしくお願いします」
ジークハルトの申し出に、遠慮なく乗っかる。
ようやく人心地ついたとニコラが身体を伸ばせば、いつの間にやら遠くでニコラたちを探しているエルンストの呼び声が聞こえるようになっていた。
どうやら神様はちゃんと元の時空に戻してくれたらしい。ご満足いただけたようだった。
遠くからの呼び声は次第に音量と明瞭さを増し、近付いて来るのが分かる。
「殿下ぁーっ! 閣下ッ! どこですか!?ウェーバー嬢! どこにいるッ!?」
「おーいエルンー! 僕たちは一階の奥にいるよー! 屋敷に隣接した温室!」
「殿下ぁぁぁぁぁああ!」
ドタドタと近付いてくる足音に、三人は顔を見合せ肩を竦める。
これは下手に動かず合流を待った方が早そうだった。
「それにしても不思議だね」
とりあえず温室から出ようとすれば、ジークハルトが呟く声を拾って振り返る。
「何がですか?」
思案げに立像を見るジークハルトに、ニコラは首を傾げた。
「いや、この館の主人は伯爵だったんだろう?貴族が商売の神様を祀るなんて珍しいと思ってね」
「本当ですね」
言われてみれば、確かにそうだった。
農民や商人が信仰するなら分かるが、何とも妙な話ではある。
だが、アロイスだけはそれを疑問には思わないらしい。
アロイスは温室の隅まで歩いて、それから朽ちかけた複数の木箱を見下ろして口を開いた。
「多分、本当に商売繁盛を願っていたんだと思うよ」
ニコラとジークハルトも近寄って覗き込めば、それは黒いカビが侵食した木製の箱だった。ざっと三十箱はあるだろうか。
無惨に倒れ散らばる箱の中には等間隔に詰められた木枠が嵌め込まれており、そうっと引っ張り出してみれば、木枠には規則的な六角形が敷き詰められている。
「これは……」
「蜜蜂の巣箱…………?」
ニコラはジークハルトと顔を見合わせる。
「夜逃げする前は資金繰りのために、ここで室内養蜂をやっていたらしいよ。書斎に帳簿や日記も残っていたから、少し読んだんだ」
ビビりまくっていた割に、地味に探索はしていたらしい。アロイスの言葉に、ニコラはなるほど、と呟いた。
蜂蜜はスコーンに垂らしたり紅茶に垂らしたりと、ちょっとした贅沢品ではあるが需要は大いにある。
また蜜蝋も、シーリングスタンプや蝋燭、はたまた口紅などの化粧品から床ワックスなどにも使われ、加工品としての汎用性は高い。
正に傾きかけた家計の、起死回生の一手だったのだろう。
結局はその甲斐もなかったようだが、夜逃げの直前まで館の主は足掻いていたらしい。
よくよく見れば地面に蜂の翅のようなものが大量に落ちていて、ニコラは少しだけ悼ましく思う。
主人の夜逃げのあと、温室の中に花が咲いているうちはいい。
だが、水遣りをする人間も絶え、花が枯れたあと、このガラス張りの温室に閉じ込められた蜜蜂たちは当然飢えてしまったことだろう。
そう思い至った瞬間に、ザッと血の気が引いて、ニコラは立ち尽くす。
蜜蜂も蜂の名に違わず、スズメバチ等に比べれば少量とはいえ、アナフィラキシーショックを起こし得る毒を持つ。
そんな毒を持つ大量の虫が、ガラス張りの密閉空間で飢え、もしも共食いの殺し合いを繰り広げたとすれば、それはもはや───。
その思い付きが正しければ、数年前にニコラの心胆を寒からしめた、あの怖気の正体は説明が付く。
だがそうなると、今度はソレが今この廃墟に居ないのは何故かという新たな疑問は出て来るが……。
死骸の胴でも見れば共食いが起こったかどうか分かるかもしれないが、さすがに胴体は自然の分解が進んだのか、見当たらない。
散らばるのは翅ばかりで、ニコラの仮説を確かめる術はなかった。
「殿下ぁーっ!ご無事でしたか!?」
瀟洒な扉はメキャッと音を立てて、ご臨終を迎えた。
どデカい犬のようにアロイスにまとわりついたエルンストは、アロイスに怪我がないことの確認を終えると、ジークハルトにも一礼する。
「閣下においてもご無事で何よりです。ただ、性急で申し訳ないのですが……今すぐ寮に戻らなければ門限を過ぎてしまうのです」
「不味いじゃないか!」
「そんな、今日私たちがこの廃墟に入ったのは昼頃だろう!?」
「神隠しなんてそんなものですって。ちなみにエルンスト様、あと何分で門限ですか?」
「十五分だッ!」
「は……?」
ニコラは間抜けにもぱかりと口を開ける。
バタバタと壊れてしまった温室の扉をくぐり、四人は一斉に屋敷の廊下を走り出した。
「十五分だって!? 私達なら全力で走れば間に合うけれど、ニコラの足だと確実に間に合わないよ!」
「閣下! 自分が抱えて走れば間に合うかと!」
入って来た勝手口を目指して走っている現時点で、どんどん前を走る三人の背は遠くなっていくばかりだ。
背に腹はかえられなかった。
「………………お願いします」
廊下を駆け、厨房を抜け、勝手口から外に出れば、空は完全に黄昏時だった。
屋敷を囲む鉄柵を超えれば、ニコラはすぐさまエルンストに担がれる。気分はさながら盗賊に拐かされる町娘だった。
軽々とニコラを持ち上げてなおスピードを落とさないエルンストの走りっぷりに、ニコラは白目を剥く。
規則的な振動に揺られながら、自分で走るより倍以上の速さで遠ざかっていく廃墟を、ニコラは最後に一瞥する。
蔦を伸ばし、互いに絡み合うようにして天へと伸びるウィステリアは、まるでこの空間を包み囲い、閉じ込めているかのようだった。




