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平日に数日降り続いた秋の長雨が漸く止んだ休日の昼下がりに、ニコラはそれなりに高貴な面々に混じってアフタヌーンティーを嗜んでいた。
具体的に言えば、学生の身ながら既に爵位を継いでいる侯爵閣下が一人、今最も力ある権門侯爵家のご令嬢が一人、そして吹けば飛ぶような弱小子爵家の娘が一人。たった三人きりのお茶会だった。
切実に社交辞令だと思いたかった、先日の侯爵令嬢オリヴィアからのお誘いが実現してしまったのである。
うち一人は幼馴染とはいえ、もう一人は本物の高貴なご令嬢で、かつほとんど初対面と言っても差し支えない関係性の上級生だ。
同級生たちとの作法も程々な、茶会という名の放課後の駄弁りとは訳が違う。
うろ覚えの作法に間違いがないか、ニコラは気が気ではなく、制服ではない余所行きのシンプルなドレスワンピースには冷や汗が滲む。
そんなニコラの心中とは裏腹に、西洋風の東屋から見える空は澄み渡っていて、昨晩まで降っていた雨のお陰で残暑も完全に落ち着いて過ごしやすい。木々の葉に付いた雫が陽光に煌めき眩しかった。
この世界において学生の本分は、勉学ではなく人脈作りにあるらしい。
そのため学内や寮内には交流のための部屋や東屋がいくつもあり、事前申請を出せば茶会用の軽食なども用意されるのだ。
今日の茶会の場所もそうした東屋のひとつだった。
三段のティースタンドには、サンドイッチやスコーン、色とりどりのケーキや菓子が並ぶ。
侯爵令嬢主催なだけあり、用いられる茶器は繊細な紋様が美しく、かなり上等なものなのだろう。
一体どれほどの金額の一品なのか、ニコラには想像もつかないが、ティーカップを握る手にもいちいち緊張が走る。
「そう言えばニコラ、前髪を切ったんだね」
「…………あぁ。よく気付きましたね」
「可愛いよ」
ジークハルトは聞いてる側が恥ずかしくなるような甘ったるい声音と蕩ける瞳でそう言うので、オリヴィアもいる手前ヒヤヒヤしてしまう。
だがオリヴィアは「お二人は本当に仲が良いのね。兄妹みたい」と好意的な解釈をしたらしい。
ジークハルトは訂正したいと言わんばかりの表情を浮かべるが、いらん事を言ってくれるなと視線を送れば、分かっているとでも言うように小さく肩を竦めた。
「そういえばニコラちゃん、この前西塔に出る幽霊のお話をしていましたわよね。その後のお話は聞いたかしら?」
オリヴィアは亜麻色の巻き髪を優雅に耳にかける。
「えぇ、聞きました。……剣術講師の先生が、とても怖い体験をしたのだとか」
「そうなんですの! 講師のお仕事が続けられないほど怯えてしまって、結局辞めてしまわれたのですって」
へぇ、ソウナンデスネと、ニコラは素知らぬ顔で紅茶を啜る。
ニコラに使役してもらえると喜んだドッペルゲンガーは、どうやら少しばかり気合を入れすぎてしまったらしかった。
ジークハルトは文化財にでも登録されそうなご尊顔に何とも物言いたげな表情を貼り付けて、ニコラをじーっと見つめてくる。
スっと目を逸らせばその視線の先で、『ジェミニ』と名付けた使い魔が鳩の姿で誇らしげに胸を張っている。
「あー…………美味しいですね、この紅茶」
誤魔化すようにカップを傾ければ、まろやかな渋みと甘やかな香りがふわりと広がる。
話題を変えようとしての言葉だったが、その紅茶はお世辞でもなく本当に美味しかった。
芳しさにほうっと息をつけば、オリヴィアは嬉しそうに顔を輝かせる。
「まぁ、ありがとう!わたくしの実家は貿易をしていてね、その伝で取り寄せたものですの。お口に合って嬉しいわ」
オリヴィアは口許に手を添えて、くすくすと上品に笑う。
ふと懐かしさを感じて、ニコラは首を傾げた。だが、何に懐かしさを覚えたのかは、すぐには思い出せない。
「あら、どうかして?」
「い、いえ、何でもありません。あ、良ければこれをどうぞ。ウェーバー領の特産品はアプリコットなんです。これはアプリコットのジャムで……」
ニコラはそう言って、透明な大瓶をオリヴィアに差し出した。
ガラス瓶の中にぎっしり詰まった、透明感のあるこっくりとした鮮やかなオレンジ色は、陽光をキラリと弾いて、我ながら結構美味しそうだと口の端が上がる。
学内で自主開催される茶会では、基本的に自分の領地の特産品や、家業の商品を持ち寄って売り込み、紹介することがままあった。
ウェーバー領は避暑地としての細々とした観光業以外はこのアプリコットしか特産品がないので、アプリコットの加工品を売り込むしかない。
「ウェーバー領のアプリコットジャムは甘味と酸味が絶妙なんだ。スコーンにも勿論合うけれど、紅茶にも合うよ」
そう言ってジークハルトも謎にウェーバー領の特産品をアシストする。
さすが、駆け落ちしたらアプリコット農家でも始めようと宣う男だった。売り込みもそつがない。
「まぁ、すごくキラキラして美味しそう! 早速使わせていただきますわね!」
瓶を陽光に翳して目を輝かせたオリヴィアは、ジャムを少量取りティーカップの中で攪拌する。
「いただきます。ん〜〜〜美味しい! とろりとした果肉が残っているのがまた美味しいわ」
オリヴィアはそう言って片頬に手を当てて目を細める。
あれ? とやはり何かが引っかかるが、その正体は分からない。
だが、分からないことをいつまでも考えていても仕方がないので、とりあえず小さく会釈をした。
「お気に召したようで幸いです」
美味しいのは、茶葉が最高級なこともあるだろうけれど。そう思いはしたが、流石に飲み込んだ。
「これはきっとスコーンにも合うでしょうね。アロイス様がこの場にいないのが残念ですわ」
オリヴィアはそう言って、空席になっている椅子をちらりと見遣る。「そうだね」と相槌を打つジークハルトの表情も苦い。
だが、ニコラはその苦笑いの理由を知らない。一人首を傾げるニコラに、ジークハルトは「本当はね」と切り出した。
「今日はアロイスとエルンストにも声を掛けていたんだよ。でも、ね……」
「えぇ、アロイス様は最近、大変そうだから……」
ジークハルトとオリヴィアは微妙な表情で目配せし合う。
聞けば、彼らの学年には隣国の第三王子が留学生として来ており、第三王子とその周辺の取り巻きを接待する役目は、在学中の王族としてアロイスが一手に引き受けているのだという。
またこの第三王子というのが曲者で、なかなかに甘やかされた我儘坊ちゃんらしく、かなり自由奔放に留学生活を過ごしているらしい。
正直、アロイスの愉快犯的な性格に振り回されているニコラとしては、彼が他人から振り回されているというのは気分が良い。
「今朝まではこちらに参加されるはずだったのだけれど……急に街に連れて行かれてしまったみたいでね」
オリヴィアは同情するというように眉を下げる。
だが、普段はニコラが困ったり当惑する様を愉しげに眺めたり、敢えて引っ掻き回すことを楽しむアロイスだ。
我儘王子にしょんもりドナドナされて行く様を想像して、ニコラは胸がすく思いがした。美味しい紅茶がさらに美味しい。
ジークハルトからのジト目には気付いていない振りをして、ニコラは素知らぬ顔でスコーンを口に運んだ。
アロイスが隣国の王子のお守りならば、自動的にエルンストもそれに着いて行ったのだろう。
彼と同じ空間にいれば視界が眩しくて仕方がないのだから、ニコラとしては、二人の不在はありがたかった。
それにしても、とニコラは思案する。
「隣国というと、ルグラン王国ですよね?」
確か、今の国王より二代前までは、ダウストリアと領土を巡って戦争をしていた国だったはずだ。
「そうだよ。リュカ殿下というのがその国の第三王子なのだけれど……彼を見てると、アロイスはまだ王族としてちゃんとしているんだなと思えるよ……。アロイスも緩いところはあるけれど、ああ見えて公務はちゃんとこなしているし、公私はきちんと分けられる……」
「そうですわね……。リュカ殿下は本当に自由人というか、ヤンチャなお方というか……」
苦りきった表情のジークハルトとオリヴィアを見るに、同じ学年として被害を被ったことがあるのか、はたまた生徒会として留学生に関わることが多かったのか。
いずれにせよ、それらしい人物がいれば全力で逃げようと決心していれば、背後でガサゴソと音がして振り向く。
見れば、四、五メートル先にある茂みから、丁度ぴょこんと猫が飛び出して来たところだった。
茶トラの猫は野良と言うにはふくよかで毛並みもよく、もしかすると学院の生徒たちに餌でももらっているのかもしれない。
だが、ニコラたち人間に気付いた猫は数メートル先から全身の毛を逆立てて、険しい顔でフシャーッと威嚇すると、すぐに茂みの中に戻っていってしまった。
「子どもがいる母猫なのかもしれないわね。気が立っているのかしら、残念」
「あぁ、違うよオリヴィア嬢。多分ニコラがいたからだ」
くすくすと笑うジークハルトに、ニコラは悄然と肩を落として口をへの字に引き結ぶ。
「どうせ私は猫に嫌われますよ……」
ニコラは前世も今世も大の猫好きだった。
前世では猫又も使役していたり、猫カフェ通いをしていた程に猫が好きで、そういう趣味嗜好は転生したところで変わるはずもない。ニコラは今世でも変わらず猫が好きだった。
だが何故か、この世界に転生してからはすっかり猫から嫌われるようになってしまったのだ。好きなものに嫌われる、これは地味に痛い。
───その理由に、全く心当たりがない訳では無いのだが。
ニコラは心中でひっそりと独りごちた。
「ニコラは猫が好きなのに、昔から猫にだけは嫌われて、引っ掻かれてばかりなんだよね。それなのに懲りずに触ろうとするから、ふふ、いつも傷をこさえて来て……」
「笑わないでください」
思い出し笑いをするジークハルトに、憮然とするニコラ。
そんな二人を見たオリヴィアは羨ましそうに呟く。
「本当に、お二人は昔から仲が良いのね」
「どうでしょう」
「そう見えるなら、嬉しいね」
対象的な反応の二人に、オリヴィアは小さく「本当に羨ましいわ」と零した。
「オリヴィア嬢も、アロイスとは小さい頃からの付き合いだろう?」
「えぇ。でもわたくしたちは出会った頃から、政略結婚と決まっていましたから……割り切った関係ですの」
ジークハルトの言葉にオリヴィアはそっと目を伏せる。
「だからこそ、お二人の仲睦まじい様子には憧れますわ。わたくしも幼馴染というものになってみたかった……」
以前アロイスがニコラに匂い袋をねだってきた際に、彼は『互いに恋愛感情はない』とは言っていたが、あまり二人の関係は良好ではないのかもしれない。
返答に困ってしまって、ニコラはフォローを幼馴染にぶん投げて黙り込む。
膝の上で揃えた手の爪がちょっと伸びてきたなぁと思考を逃避させて、話題が変わるのを待つばかりだった。




