7
人型のような、クリオネのような形を象る小さな紙ぺらに先導されて階段を駆け上がるニコラの息は、既に絶え絶えだった。
日頃の運動不足と運動神経の悪さが祟り、心臓が痛いほどに早鐘を打ち、肺が痛い。
「ちょ、待っ…………」
そんな産みの親たる術者を呆れるように、煽るように、振り返ったその紙は数歩先で片手をぺらぺらと振った。足を止めることを許してはくれないらしい。
何か異常があれば知らせるようにと命令を下したのはニコラではあるが、ソレはなかなかに職務に忠実なようで、主人にも手厳しかった。
「……くそ、分かったよ、分かったから…………」
気力を振り絞って泥のように重くなった手足を動かせば、紙切れは満足げにくるくると回り、再び先導を再開する。
ようやく目的地に辿り着いたニコラは半ば転がり込むように、西塔の最上階にまろび出た。
だが、無数の鳩や鴉たちに群がられた彼女はそんな無様な闖入者に構う余裕もないらしい。
鳥たちを嗾けておいて何だが、これ幸いと窓辺にもたれかかるようにして呼吸を整える。
開かれた窓の外にはニコラを窺い見る黒い靄。そして地上を見下ろせば、豆粒のような小さな人影が見えた。どうやらあれが件の伯爵らしい。
振り返れば、少女の足元には割れた花瓶がある。破片の量からして、元はかなり大きなものだったのだろう。なんとか間に合ったことにニコラは小さく安堵した。
乱れた髪を手櫛でざっくり整えたニコラは、彼女に見えないように鳥たちに指示を出す。
念の為にと学内に放っておいた鳥型の式たちが開け放たれたままの窓から全て飛び立ったのを見送ってから、ニコラは少女の前に立った。
「その花瓶を落とすつもりだったの?」
「……何のこと?」
乱れた猫っ毛を整えながら、彼女は嘯く。
「アンネのための復讐?」
「ッ! 姉を、知ってるの……」
そう言って、エルザ・フォン・ラッツェル伯爵令嬢は目を見開いた。〝姉〟という言葉に、ニコラは対照的に目を細める。
ダークブラウンの癖毛に琥珀の瞳。エルザの色彩はそのまま彩度と明度を少しずつ上げれば、アンネの栗色の癖毛と黄玉の瞳に重なった。
火のないところに煙は立たない。
もしも火のないところに煙が立っているのならば、その噂は人為的なもののはずだという推測は、どうやら当たっていたらしい。
特に、噂の幽霊の容姿はアンネそのものだった。噂の元が妹であれば、納得できる。
「アンネはビューローという姓だったと思うけど、エルザは違うのね」
「……父の死後にね、母がラッツェル伯爵と再婚したの。だからわたしは、数年前から伯爵令嬢になったわ」
エルザは抑揚のない声でそう答える。
なるほど、どうりで口調が親しみやすいわけだとニコラは心中で呟いた。
普通、爵位が高くなるにつれ、オリヴィアやフリューゲル伯爵令嬢のような、典型的なお嬢様口調の人間は増えるのだ。そして、子爵家や男爵家の娘の口調は商人階級のような下町寄りの者が多くなる。
エルザの話し方は伯爵令嬢の割に、ニコラやカリンのように下町寄りだった。
「ねぇニコラ。姉を知っているなら、姉がここから飛び降りて自殺したことも知ってるでしょう? 姉はね、あの男に弄ばれたの」
エルザはそう言って、窓辺まで歩いて地上を見下ろす。
ニコラもまた窓から真下を見下ろした。そこは剣術の演習場となっているという場所で、男は模造刀を運んでいるらしい。
剣術の講師、ベルマー伯爵。その名はアンネの自殺騒動の資料として、生徒会室に残っていた。
「ねぇ、この前のお茶会でわたし、銀の君とエルンスト様の手合わせを間近で見れたって言ったでしょう? その時にね、あの男、銀の君に「火遊びは弁えている女とやれ」なんて言ったのよ。「でないと後が面倒だから」って。間接的に人を死に追いやっておいて、ひどい言い草だと思わない? あの男は反省なんて、全くしてないの」
エルザはギリっと奥歯を噛み締めて拳を握った。
「だから噂を流した?」
「そう。そうしたらね、びっくりする程あっという間に噂が広がったわ」
一週間前、ジークハルトとエルンストが手合わせをしたその日に、アンネはジークハルトに取り憑き、そしてその日の放課後のうちに成仏した。
一方でエルザはちょうどその日から、噂を流し始めたのだろう。
姉妹は奇しくも同じ時、同じ場所で、同じ人物の台詞で行動を思い立ったらしかった。
「最初は、噂があの男の耳に届いて、少しでも怯えればいいと思ったの。でも思ったよりすぐに噂は広がって、今じゃ学院中がその噂で持ち切りだわ。だから今なら、あの男が西塔の下で不運な事故に遭ったとしても、本当に幽霊のせいになるんじゃないかって思ったの」
ニコラは黙ってそれを聞きながら、割れた花瓶を見遣った。
確かに指紋鑑定など出来ない世界だ。目撃者さえ居なければ犯人特定は難しく、噂はさらに一人歩きすることだろう。
ニコラは窓の外を眺めて、ボソリと呟く。
「アンネは復讐を望んでない…………………………と、思う」
「あら、どうしてそう言い切れるの?」
エルザは不快げに顔をしかめる。
「そんなの分からないじゃない。死んだ人は口なんて聞けないもの!」
それはそうだ。ごもっとも。エルザの反応はこの上なく正論だった。ニコラは唸るしかない。
当然だが、普通は幽霊など見えないのだ。
残念ながらニコラが特異なだけで、基本的には故人と会話など出来ないのである。
だが今回、ニコラはアンネと直接言葉を交わしてしまっていた。
彼女の意に反して彼女の親族が殺人なり傷害なりに手を染めるのを見過ごすのは、流石に寝覚めが悪すぎる。
どうしたものかと考え込んでいれば、チラチラと視界の隅で跳ねたり見切れたりする黒い靄があって、気が散るのでエルザにはバレないように睨む。
だがキュルキュルと集合して球体になったソレは、ニコラが視線を向けたことを嬉しがるように、より一層ぴょこぴょこと窓枠を跳ねた。
「ぁ……! ちょ、ちょっとエルザ、数分だけ待って、ここで待っていて!」
突然の閃きに、ニコラは制服を翻して階下へ駆け下りる。
ワンフロア下の窓に近寄れば、ソレもまた下に降りて来ており、窓の外枠に居た。ニコラは窓を開け、ソレを内側へ招く。
「お前、あの時も外に居たよね!?」
ニコラは球体に小声で詰め寄った。
球体はニコラの手の上でぴょこんと跳ねる。
ここのところずっと窓の外からこちらを窺っていたのは、ニコラが以前に外へ放り捨てた、ジークハルトの真似をしていたドッペルゲンガーもどきだった。
ニコラの「出て行くなら祓わない」という言葉を建物外ならセーフと受け取ったらしいソレは、一応建物には入らず外からちょこちょことニコラを窺うだけだったので、今までずっと放置していたのだ。
このドッペルゲンガーは、アンネが成仏したあの日の放課後も、外からニコラたちを覗き見ていたはずだった。
「お前、もしかしてアンネにも成れる?」
黒い球体はもう一度ぴょんと掌を跳ねると、瞬きの間に人型になっていた。
「成れるわ!」
栗色の猫っ毛に、トパーズの瞳。
ニコラの前でくるりと回って制服を翻した少女は、得意げに笑った。
だが、その姿はどうにも生きている人間そのものだったので、少し注文をつけてみる。
「もう少し透明になったり出来る?」
「えぇ、出来るわ!」
ソレが目をギュッと瞑って開いた時には、その身体は透けていた。
アンネの姿をしたソレは不安そうに、少し上目遣いで言った。
「……上手?」
そういえば最初に遭遇した時に「下手くそ」と言ったことを思い出して、ニコラは苦笑する。
「うん、上手」
「本当!? 嬉しい!」
ソレはニコラの手を取って、アンネのように朗らかに笑った。
「上の階にいるアンネの妹に、復讐を望んでいないことを伝えて欲しい。欲を言えば、最後は成仏したように見せて、この階に戻って来て欲しい。出来る?」
「ジョウブツ、薄くなって消えたように見せればいいのよね?」
しっかりとアンネの最後を記憶していたらしいソレは「行ってくるわ」と笑って、一度靄へと戻って窓から上へ上がって行った。
それから十分は経っただろうか。
黒い靄が階下へ降りてくるのと入れ替わりで最上階へ戻れば、エルザは目元を少しだけ腫らして変わらず窓辺に立っていた。
「ごめん、お待たせ。あとやっぱりアンネは復讐を望んでないと思うわ」
エルザは赤い目を見開いて、それからぷっと吹き出した。
「何よその雑な説得。…………でも、そうね。そうなのかもね」
憑き物が落ちたような表情になったエルザに、ニコラはホッと胸を撫で下ろす。
「ねぇ、ニコラ。貴女どうして……」
「さぁね。秘密よ、秘密」
ニコラはShh……と唇に人差し指を添える。
「女は秘密を着飾って美しくなるって、どこかの綺麗で妖しいお姉さんが言ってたわ」
エルザは眉尻を下げて「何よそれ」と笑った。
「もうすぐ寮の門限だから、帰らない?」
「…………そうね。雨も降りそうだなことだしね」
二人は窓から重く垂れ込めた曇天を見上げ、顔を見合せ頷きあった。
寮へと戻る道中、エルザはずっともの問いたげではあったが、結局ニコラを問い質すことはしなかった。
その代わりに、エルザは故人の思い出話を語った。
読み書きを教えてくれたこと、人形遊びにもよく付き合ってくれたこと。夢見がちな乙女は、良い姉であったらしい。
永遠に更新されることのない思い出は、時間の経過とともに美化されているところもあるのかもしれない。だが、微笑ましい姉妹の記憶を聞くのは楽しかった。
それぞれの自室の前で別れ、ニコラは疲れた身体のままベッドにダイブしようとして、窓枠の上をコロコロと転がる黒い球体に目を止める。
流石に協力してもらった手前、邪険にするのも悪い気がして、疲れた体に鞭打って窓を開け、中に招き入れてやれば、黒い球体はぴょこんぴょこんと嬉しそうに跳ねた。
「…………にしても、どうしてこんなに懐かれたのかね」
そんなニコラの呟きを拾ったらしいソレは、ふよふよと浮かんで文机の上に着地する。
机の隅にはあの日即席で作ったウィジャボードが置かれたままになっていて、ソレはボードのアルファベットの上を転がっては跳ね、転がっては跳ねる。
『行くところない』
『することない』
『はじめて認識してくれた』
『役にたつ』
『がんばる』
『そばにおいて』
他人の真似をして、誰にも偽物と気付いてもらえなかった存在が、ニコラという人間によって初めて個として認識され、嬉しかったらしい。
「じゃあ……お前、私の使い魔になる?」
そう問えば、ソレはボードのYESの上を高速でバウンドしだすので、「分かった分かった」と苦笑が洩れる。
契約をするならば名前を付けなければならないが、如何せん不慣れな運動をしたせいで猛烈に眠い。
フラフラとベットに倒れ込んだニコラは、力なく言った。
「……名付けも契約も、悪いけど明日にしよう…………。今日のうちにもう一つ頼まれてくれる?」
もはや瞼もほとんど落ちかけだ。身体は泥のように重い。
「ベルマー伯爵の枕元にアンネの姿で立ってね、少しだけ脅かしておいで……」
アンネは確かに積極的に復讐をしたいと望んではいなかった。
だが、あの男に対して「別にどうでもいい」とは言えど、「怨んでいない」とも「赦した」とも言ってはいない。
ニコラはアンネ自身がもうどうでもいいと思っている男のために、彼女の妹が手を汚すのを止めただけだ。
個人的には、女性ばかりが割を食うのは気に食わないし、人ひとり死に追いやっておいて反省もしないクズ男には、ニコラとて思うところがあるのだ。
とうとう降り始めた大粒の雨が窓を叩く。
ほとんど落ちかけた瞼の隙間で黒い球体がキュルンと跳ねたのを最後に、ニコラは完全に眠りに落ちる。
お誂え向きの雷雨の夜、男の野太い絶叫が響き渡ったとか、渡らなかったとか。ニコラがそれを知ったのは、数日後のこと。
使役してもらえると喜んだソレが、少しばかり張り切り過ぎてしまったことは、小さな誤算だった。




