3
そして迎えた放課後。
ニコラが約束通り生徒会室へと向かえば、そこにはまだエルンスト一人しかおらず「うげっ」と声が洩れそうになるのを慌てて飲み込む。
椅子も机もいくつかあるのに部屋の隅で直立していたエルンストは、ニコラの入室に気付くや否や、またもやむっすりと不機嫌面になった。
初対面だったにも関わらず非友好的な態度を取られるのは何とも不愉快で、ニコラもつられてしかめ面になるしかない。
だが、気まずい沈黙に耐えかねたニコラは、やがて渋々と口火を切った。
「…………あの、私は何か貴方の気に障るようなことでもしましたか?」
理由も分からず邪険にされて大人しくしていられるほどニコラは温和な性格をしていない。
棘々しさを隠そうともせずに問えば、エルンストは眦を釣り上げて低く唸った。
「俺は、自分の目で見たことしか信用しない。俺はお前を信じないぞ! 胡散臭い戯言で殿下を誑かすな!」
「…………あぁ、なるほど。そういうことですか」
途端に合点がいって、ニコラはポンと手を打った。
それならばそうと最初から言ってくれればいいのにと、ニコラは突き放すように笑う。
「貴方が信じないならそれでいいです。何の問題もありません」
「なッ!」
世の中、そういう現実主義の手合いはどうしてもいる。
そういう人種はたとえ主君や友人が信じていようと、非現実的なモノを信じることはない。
例えば彼の目の前で式神を見せたとしても、こういう手合いはトリックや仕掛けがあるに違いないと疑うのだ。
ニコラは別に、信じてもらえずともそれはそれで構わなかった。
むしろそういう人種の方が世間には多いことを、ニコラは正しく理解しているし、慣れてもいる。
人には人の〝現実〟があるのだ。
視えるニコラにとっては〝居る〟ことが現実で、視えないエルンストにとっては〝居ない〟ことが現実。
彼が認識する確固とした現実が揺らがない限り、彼が怪異に遭遇することはないだろう。
───特に彼の場合は。
エルンストを眩しいものでも見るように目を細めて眺めていれば、生徒会室の扉が荒々しく開かれた。
「ニコラ嬢、もう来てる!?」
扉を開いた主はアロイスで、ジークハルトはアロイスに半ば引き摺られるような形で手を引かれ、生徒会室に入って来る。
だが、そんなジークハルトを上から下まで一瞥したニコラは、あからさまにため息をついた。
「なんだ、いつも通りじゃないですか」
文字通り、ジークハルトの状態はいつも通りの通常運転。
確かに首から上は黒く煤けた靄に覆われて、煌めかしいご尊顔こそ見えにくなっているものの、彼に憑いているのは特段騒ぐほどのタチの悪いモノでもなく、また大量に憑いている訳でもない。
だいたい一、二ヶ月ぶりに会うジークハルトはいつもこんなものだった。
「やっぱり? 私もアロイスが言うまで何にも気付いてなかったし、今だって言われてみればちょっと肩が重いかな、と思うくらいで特に不都合もないから、大丈夫だって言ったんだけれどね……」
そう言ってジークハルトは所在なさげに頬の辺りを掻いた───と思われる。何せ黒い靄が邪魔で見えないので。
何とも鈍感なジークハルトの発言だが、それほどよく視える方ではない彼は、基本的に余程ハッキリと形を持ったモノや明確な霊障でない限りは知覚出来ないのだから仕方がない。
こんなに真っ黒に覆われているのに!? と素っ頓狂な声を上げるアロイスは、信じられないものでも見るような目でジークハルトを振り向いた。その腰はすっかり引けてしまっている。
「ねぇ、ということはつまり、僕は今までずっとこんな状態のジークを見て、何にも気付いてなかったってこと……?」
「今まで気付いてなかったのならそうでしょうね。この人は一年のうちの半分くらいは、何かしらを引っ憑けて生活してますから……」
やはりアロイスは視えやすい体質になってしまったらしい。
それが一時的なものか永続的なものかは現時点では分からないが、今までと同じものを見ても見える景色は一変してしまうのだろう。
自業自得とはいえ、ニコラは憐れみを込めてアロイスを見遣る。
エルンストはといえば、主君であるアロイスの言葉の意味を理解しようとジークハルトを矯めつ眇めつ眺めては、訝しげに首を捻ってを繰り返していた。
終いには発言したアロイスの方ではなくニコラの方を胡乱げな目で睨むので、面倒臭い。
兎にも角にも、サクッと祓ってしまうかと、ジークハルトに憑いた靄をまじまじと眺めて、ニコラはふと違和感に気付いた。
「それにしても、新しい匂い袋は渡したばかりですし、コレが新品の匂い袋を突破出来るほど強いモノとは思えないんですけど……」
「「あ」」
ジークハルトとエルンストは思い当たる節があったのか、揃って顔を見合せる。
「すっかり忘れていたね……」
「すみません閣下! 自分が探して来ますのでッ!」
「あ、エルンスト待って……! って、もう行ってしまったね……」
制止の声も聞かずに、エルンストは慌ただしく部屋の外へと消えていった。
「なになに?何事?」
事情を知らないのはニコラだけではないらしく、アロイスも首を傾げる。
「午前最後の剣術の授業で、私とエルンストが対戦した時にね、剣先が匂い袋に引っかかって千切れてしまったんだよ。それを二人ともすっかり忘れてしまっていて……」
ジークハルトは申し訳なさそうに眉尻を下げてニコラに説明する。
だが、匂い袋を身に着けていなかったというのなら、さっそく憑かれてしまうのも納得だった。
「ちなみにその手合わせは、どっちが勝ったんだい?」
興味津々といった様子のアロイスが訊ねると、ジークハルトは苦笑して言った。
「残念ながら、エルンストだよ」
「やっぱりエルンに勝つのは、ジークでも難しいかい」
ジークハルトの返答はアロイスにとって意外なものではなかったらしい。
へぇ? とニコラはエルンストが去っていった方を見遣る。
ジークハルトがそこそこの腕前であることは、ニコラも知るところだった。
年上の幼馴染は優美な見た目の割に、ニコラが両手で持ってもよろけてしまうような剣を片手で軽々と振り回す上に、本職の騎士相手にも手合わせで勝っている所を何度か見たこともある。
そんなジークハルトが勝てないというのだから、あの堅物騎士、腕だけは確からしい。
だが何はともあれ、エルンストが席を外してくれたことは僥倖だった。
種や仕掛けを疑われたり、インチキだという疑惑の目を向けられながら祓うのは精神衛生上よろしくない。
彼が戻って来る前に祓ってしまおうと、ニコラは再度ジークハルトに向き合った。
見れば、腕のようにも見える二本の靄を伸ばしたソレはギリギリとジークハルトの首を締め上げては、ポカポカと彼の頭の辺りを叩いている。
だが、靄そのものの力が弱いのか、はたまた彼が鈍感なだけか、さほど効果は無さそうで本人は案外ケロッとしたままだ。
ニコラが近付けば、黒靄は締め上げていた腕のようなものを緩めて今度はニコラの方に腕を伸ばし、
「……へ?」
ニコラに腕を伸ばした黒い靄は、何故かニコラの頭をよしよしと撫でたのだ。これには流石のニコラの頭にもハテナが飛ぶ。
ジークハルトの美しさに対して誘蛾灯のように集まって来るモノたちの大半は、彼に近付く女であるニコラに敵対的なことが多いのだが……。
今回はジークハルトに対してこそ敵対的で、ニコラには親和的。何とも珍しいパターンに、ニコラは口の端を上げる。
「面白いですね。事情を聞いてみましょうか」




