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刺繍の授業という、女生徒のみ必修の授業を終えたニコラは、同じクラスに振り分けられたカリンと世間話をしながら食堂に向かっていた。
「うぅ、こういうの肩が凝るのよね……。私、細かい作業をずっと続けるの、大っ嫌い!」
「そりゃ、好きな人の方が少ないと思うけど?」
「でもニコラ、私の倍は課題の図案が進んでるでしょう」
「好きだから早いって訳じゃないってこと」
細かい作業が好きではなくても、慣れてしまえばスピードは上がる。
定期的に匂い袋を繕っていれば、嫌でも慣れるというものだった。
「それでも、少なくとも私よりは器用だわ」
「まぁ……それはそうかもね」
お世辞にも綺麗とは言い難い彼女の習作を思い浮かべて、ニコラは半笑いで同意する。
正直、カリンより不器用な人間を探す方が難しいだろう。
他の生徒より大幅に遅れているカリンに付き合って居残ったために、既に時計の針は昼休みの中盤に差し掛かっていた。
「私の分の課題もやってよニコラぁ」
「ぜったいに嫌」
そんな他愛もない会話をしながら階段の踊り場に差し掛かった頃、長身の男子生徒がすれ違いざまにニコラの真横で足を止める。
「お前がニコラ嬢……ウェーバー子爵令嬢なのか?」
「…………そうですが何か」
ニコラ嬢という呼び方はとある駄王子を彷彿とさせて、もはや反射的に眉間にしわが寄る。
男子生徒もまた初対面であるにも関わらず、何故か不満げなしかめ面でニコラに向かって凄むため、余計に眉間のしわは深くなる。
そんな、どこからどう見ても友好的ではない二人を前に、カリンは何をどう勘違いしたのか顔を輝かせて悪戯っぽく耳打ちした。
「ニコラ、後で話は聞かせてね!」
あまつさえ、この謎に不穏な空気をものともせずに斜め上の気遣いを見せ「私、教室に忘れ物しちゃったわ」と、止める暇もなく引き返して行ってしまう。
残されたのは、気まずい沈黙だった。
「………………」
「………………」
男子生徒は体格が良く、低身長のニコラはかなり見上げなければその全貌を掴めない。
ジークハルトと会話する時にも随分と見上げなければならないが、それを超える仰角に首が痛くなりそうだった。
精悍な顔つきに、制服の上からでも分かる、筋肉質な体躯。
濃茶の短髪を刈り上げた、いかにも武人風のその青年は、何故かそのブルーグレーの瞳を炯々と眇めてニコラを無言で見下ろしたまま、一歩一歩と近づいて来る。
これ以上見上げたくはないが、目を逸らすというのも何だか負けた気分になって嫌だと意地を張ったニコラもまた、じりじりと後退る。
そんなよく分からない珍妙な状況を打破したのは、階段の下から登ってくる人間の声だった。
「こーら、駄目だよ。誰の女に絡もうとしてるか、分かっててやってる?」
背後から馴れ馴れしく肩に置かれた手と、遺憾にも最近聞き慣れつつある軽薄な声に、すんとニコラの目が据わる。
「ジークのだよ?」
振り返らずとも分かる。アロイスだった。
「……普通そういうのは自分の女に手出しされている時の台詞ですよ、斬新だなオイ。というか別にジークハルト様のものでもありませんから」
ニコラがキッと睨め付けても、相変わらずアロイスはどこ吹く風で軽口を叩く。
「あはは、助けたのがジークじゃなくて残念?」
「……全くもって残念な王子ですね」
もはや、不遜な態度も言動も罪に問わないという宣誓書を得たニコラに怖いものはない。我慢は体に悪いのだ。
アロイスもまた、そんなニコラの態度に「うんうん、やっぱり新鮮〜」などと愉しげに笑うので、ニコラは一層毛虫でも見るような目を向ける。
「お前ッ! 殿下に対して不敬だぞ!」
だがこれには何故か、アロイス本人ではなく目の前の武人っぽい青年の方がニコラに噛み付くので、ニコラはゴソゴソと先日書かせた宣誓書を鞄から取り出して青年の眼前に突き付けた。
青年は宣誓書を上から下まで食い入るように読んでから、信じられないものを見るかのようにアロイスを振り仰ぐ。
「で、殿下……本当にこんなものをお書きになったんですか!?」
「うん、書いたよ。ニコラ嬢、面白いだろう?」
くつくつと笑うアロイスに青年は絶句する。
彼もまた常日頃から駄王子に振り回されているのかと思うと、若干の憐れみを抱かなくもなかったが、ニコラはそろそろこの非友好的な男が何者なのか知りたかった。
「……で、一体どちら様ですか」
「俺は! 殿下の護衛騎士だッ!」
くわっと刮目した青年は叫ぶ。
自己紹介にしては足りない名乗りには、アロイスがにこにこと補足を挟んだ。
「彼はね、エルンスト・フォン・ミュラー。エルンは僕の近侍なんだ」
ニコラはパチクリと瞬きをする。
基本的に、全寮制の学院に従者連れは認められていないはずだが、流石に王族は例外らしい。
なるほど、どうりで呼び方が駄王子を彷彿とさせるわけだった。
だが、彼ら二人が旧知の間柄であるなら、冒頭のやり取りはとんだ茶番ではないか。
呆れてアロイスを睥睨すれば、彼は慌てて何かを思い出したかのように手を叩く。
「って、違う違う! こんなことしてる場合じゃなかった! 君を呼びに来たんだよ!」
ガシッと無遠慮に両腕を掴まれて、肩が跳ねる。
「ちょっと目を離した隙にジークが真っ黒でうごうごしてる靄に覆われちゃったんだ、助けてあげて!」
「…………またですか」
ニコラはため息とともに片手で顔を覆う。年上の幼馴染は、つくづく怪異吸引体質らしい。
「……ジークハルト様に持たせている式神は、命の危機に陥ればちゃんと発動しますから。発動していないなら、緊急性は無いということです。放課後に人気のない所ででも落ち合いましょう」
えぇ? 本当に大丈夫なの? とでも言いたげな顔だが、アロイスは最終的に不承不承頷いた。
「じゃあ、この時期は生徒会活動もないだろうから、生徒会室に集合しよう。絶対だよ?」
念押しするのはジークハルトの入れ知恵だろうか。
流石にお憑かれ状態を放置するほど人でなしではないのになと、ニコラは肩を竦める。
視界の隅ではエルンストが、アロイスを適当にあしらうニコラを睨みながらガルルと唸っていた。激しく物言いたげだったが知ったことではない。




