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キィンと甲高い音を立てて、伯爵子息の手から剣が弾き飛ばされる。
刃を潰した模造刀は弧を描いて、手入れの行き届いた芝に突き刺さった。
「勝者、エルンスト・フォン・ミュラー!」
あぁ、やはり次の相手はそうなるだろうなと、西塔の外壁に背を預けて座っていたジークハルトは特段驚くこともなく立ち上がって、改めて身体を伸ばして次戦に備える。
何事もそこそこ器用に熟すジークハルトが全科目のうちで唯一、剣術や馬術などの騎士系科目でのみ首席を取ることが出来ないでいるのは、ひとえにこのエルンストが同学年にいるためだった。
緩んできた髪を一度ほどき、高い所できつく結い直す。
口に咥えるのは、ジークハルトが誕生日のプレゼントとしてニコラにねだった髪飾りだ。
ベルベット地で深いネイビーブルーのリボンは、本人にそのつもりはないのだろうが、彼女の瞳の色と揃いのようでお気に入りだった。
剣術授業の勝ち上がり戦は次が最終戦で、対戦カードはエルンスト対ジークハルト。
いつも次席に甘んじてはいるが、今日こそはと決意も新たにエルンストに向き合う。
「エルンストは、やっぱり強いね」
「いえ、自分は代々そういう家系ですし、勉学の方はからっきしです。勉学と両立した上でそれ程の腕前である閣下の方が、自分などよりよほど凄いですよ」
エルンストの実直な性格を知っているジークハルトは、世辞ではないと分かるその言葉に苦笑した。
ジークハルトは自分が器用貧乏な性質だと自認している。
何事もそこそこ優秀に熟すが、突出した天才には届かず総じて秀なる凡夫の域を出ない。
無いものねだりなことは承知していても、器用なだけの己とは違って何かひとつを極め尽くした非凡な存在には、羨望を抱かずにはいられなかった。
授業も終盤。
最終戦ということもあり、気付けば他の男子生徒たちが皆わらわらと野次馬として周りを取り囲む。
「今回もまたこの二人かぁ」
「でもエルンストは怪我からの復帰戦だろ」
「確かに、今日はもしかするともしかするかもしれないな」
耳に入る、ジークハルトが不利と見る下馬評は仕方がないものの、悔しいとは思うのだ。
ニコラの領分ではてんで役に立たないジークハルトは、せめて実体があるものからは幼馴染を守れるように、強くならなければならなかった。
秋口に差しかかるとはいえ、正午の真上から照り付ける日差しにはまだ辟易としてしまう。
西塔の下、青空のもと、演習場には日光を遮るものなど何もない。ゆっくりと息を吐いて、スタートの合図を待った。
「双方構え、始め!」
開戦と共に大きく踏み込んで、三連の突きを放つ。
だがそれは最小限の動きで仰け反って躱され、一刀のもとに弾かれた。そのまま動きを一瞬も止めることなく再び間合いの内に飛び込んで来るエルンストには、長剣を切り上げながら飛び退る。
ジークハルトも鍛えてはいるが、元来筋肉が付きにくい体質なのか、才覚だけでなく体格にも恵まれているエルンストと正面切って打ち合うことになれば、押し負けてしまうのだ。
鍔迫り合いは刃を滑らせて受け流し、弾く。
こちらも一瞬たりとも停滞することなく斜めに踏み込み、切り結ぶと見せかけて足払いをかける。
だが、思うほどエルンストの体幹を崩すことはできず、逆に追撃を受けて転がり避ける。
首から提げたまま服の下に入れていた匂い袋がいつのまにか宙に躍り出てしまっていた。エルンストの剣先が引っかかり、紐が千切れて飛んでいってしまうも、その行方を気にしている余裕は流石にない。
間髪を入れずに地面に手を着いて跳ね起き、同時にエルンストの首を狙って大きく薙ぐ。
しかし、大雑把になった自覚のある挙動は読まれていたようで、柄で大きく弾かれてしまった。だが、体勢が崩れたのはエルンストも同じ。
体勢を整えるために互いに再び飛び退ってから、二人は同時に地を蹴った。
忙しない動悸の音と互いの乱れた息遣いがやけに耳につく。
ジークハルトの長剣がエルンストの胸元に届くより僅かに先に、エルンストの切っ先がジークハルトの喉元に突きつけられていた。
「勝者、エルンスト・フォン・ミュラー!」
剣術講師の声と同時に、周囲から歓声が上がる。試合を終えた二人は荒くなった息を整えながら互いを見遣った。
「悔しいけど、やっぱりエルンストには敵わないね」
「いえ、自分も何度かヒヤリとさせられました。閣下が自分と同じ体格であれば互角だったかと」
それはどうだろうかと、ジークハルトは内心苦笑する。
もし仮に互角だったとしても、それは〝療養明けというハンデを負ったエルンストと〟であるに過ぎず、恐らく平常の彼には遠く及ばないだろう。
彼が恵まれた体格に胡座をかいて修練を怠るような男だったなら話は別だったかもしれないが、残念ながらそうではないのだ。
やはり、体格にも才覚にも恵まれ、その上努力を惜しまない実直な性格のエルンストは強い。
「……ありがとう。また手合わせをお願いしてもいいかい?」
「もちろんです」
ジークハルトが手を差し出せば、力強く握り返された。
剣術講師は模造刀を片付けるように指示して、授業の終わりを告げる。
気付けば授業時間を過ぎていたようで、二人を囲む野次馬の中にはいつの間にか、既に昼休みに入った女子生徒たちも混じっていたらしい。
渡り廊下などから遠巻きに観戦していた生徒もいるらしく、その数はなかなかに膨れ上がっていた。
気付いてしまえば途端に視線も黄色い声も煩わしく思えてしまって、ため息をそっと飲み込む。
顔に出すことこそしないが、人目を集めてしまうことは未だに苦手だった。
だがそんなジークハルトを見た剣術の講師は彼の意など汲まずに、「相変わらずの人気だな」と好奇の目を向けて下世話なことを言う。
「アーレンベルクは確か、まだ婚約者はいないのだったな。火遊びはちゃんと弁えている女とやれよ? でないと後が面倒だからな」
キザなウインクと共にジークハルトの肩を軽く叩いて、講師は去っていく。
年齢も近く、男子生徒の悪ノリにも寛容なその講師は、話の分かる兄貴分として一部の男子生徒から熱狂的な人気を集めていた。
だが、残念ながらジークハルトはその一部の生徒には含まれず、どちらかと言えば敬遠している側に属している。
長年片恋を拗らせているのだから、火遊びなどするはずもないのに。
ジークハルトは口には出さず、講師の背を何とも苦々しく見送った。
「……エルンスト、私はこのあと食堂でアロイスと合流するつもりなのだけれど、一緒に来るだろう?」
「いえ、それが……休んでいた間の課題を受け取りに行かねばなりませんので、昼食はご一緒出来ないのです」
エルンストを振り仰げば、彼は心底申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「そうなんだ。じゃあアロイスにはそう伝えておくよ」
「ありがとうございます。それでは」
エルンストは綺麗な一礼をしてから足早に、演習場となっている西塔の下を後にする。
夏季休暇の間に、どうやら随分と身体が鈍っていたらしい。
久方ぶりの本気の手合わせに疲れがどっと押し寄せて、身体が気だるく重かった。
男女が入り交じり当初の倍ほどに膨れ上がっていた野次馬も、昼食を求めて三々五々に解散していく。
その流れに身を任せれば、ジークハルトはあっという間に周りを女子生徒数名に囲まれてしまった。
彼女たちは口々にジークハルトの剣技を褒め称えるが、だったら群がるべきはエルンストの方だろうにと思わずにはいられない。
曖昧な笑みで当たり障りなく濁して、どうにかその場を切り抜けたジークハルトは、重たい首周りをぐるりと回して「鍛錬を少し増やそうかな」とぽつりと呟いた。