五分刈りのスレイヤー
「クケケー! さっさと剥ぐんだよォ!」
「ヒャハー! オンナ! オンナ!」
醜いゴブリン達の声が暗い洞窟内に響き渡る。
「ぐッ……ォオォォ……」
精一杯、腹に力を込めようとしても声が出ず、もはや指一本を動かすこともままならない。
心臓だけが激しく鼓動している。
俺はうつ伏せに倒れた体勢で、耳から入ってくる情報をただ受け入れる事しか出来なかった。
「キャアアア! いやぁァァッ」
彼女の悲鳴が痛々しい。
これから何が起ころうしているのか。
それは想像に容易い。
全て――
悲鳴がどんどん遠くなっていく。
今起きている惨劇も。
これから待っている確かな死も。
――全て、俺の無力が招いた結果だ。
――――
「――おい。起きろ」
なんだ……? まだ、生きてるのか?
身体は……動く。
「俺は……死んだんじゃなかったのか」
「ここが天国に見えるのか?」
身体を起こす。声の主は俺よりもはるかに背が高い、五分刈りの大男だった。
そして、男の周りには無数のゴブリンの死体が山になっていた。強烈な血の匂いがする。
「どちらかというと……地獄だな」
死体というよりも肉片というべきかもしれない。一体どういう戦い方をしたらこうなるのか。
……いや、そんなことよりも。
「彼女を……俺の連れを見なかったか?」
「この女の事か」
五分刈りは体を少し横にずらすと、彼女が横たわっているのが見えた。
彼女は何かにうなされているかのように、目をかたく閉じ、歯を食いしばって胸を上下させている。
「こいつはな、″注射″ されたんだ。わかるだろ?」
「注射?」
「何の知識も無くゴブリンの巣に入り込んだのか。マヌケめ。ゴブリンに注射された者はオーガになる。見ろ」
「オーガだと……!?」
彼女の肌が緑色に染まっていく。呼吸はどんどん荒くなり、口からは牙のような歯が伸び始めていた。
「暴れ出す前に殺すぞ」
そう言うと五分刈りはゴブリンの持っていたダガーを拾い上げ、彼女の首に当てがった。
「やめろ! 待ってくれ!」
無慈悲に処刑を執行しようとする五分刈りに、俺は必死になってしがみついた。
それでもこの男は一切動じず、体勢を崩す事も無かった。
革鎧の上からでも鍛え上げられた五分刈りの強さが伝わってくる。こいつと俺とでは天と地ほどの力の差がある事を嫌でも実感してしまう。
「放っておけば外に出て被害を生む」
「何か、他に手段はないのか!? 薬とか……」
「抗体は高価だ。こんな場所で苦戦するマヌケが買える物じゃない」
「くそ! だからって殺すことないだろ!」
こいつは……この五分刈りは先程から表情を一つも変えない。同じ血の通った人間とは思えない。
感情論よりも合理的な話を好む人間がいる事は知っているが、そういう次元じゃない。人間の首を刈ろうとする動作に一切の躊躇が無かった。
「ふん。それなら勝手にしろ」
五分刈りは一言それだけ言うと、淡々とゴブリンの残骸から耳を切り取り、ずだ袋を担いで先へ行ってしまった。
後に残るのは緑色の肉片と、俺と、オーガになりかけている彼女だけだ。
「おい。しっかりしろ……!」
歪みきった苦悶の表情はまるで笑っているかのようにさえ見える。ほとんど緑色に変色した彼女の全身の筋肉が引きつり、けいれんを起こしている。
そしていつの間にか、俺よりも遥かに大きな体躯に成長していた。
「ぐ……ガァァアアアッッ」
筋肉質に膨張した彼女の手が俺の腕を強く掴む。
尋常ならざる握力で食い込む爪が腕の筋組織を破壊する。
俺の腕はぷちぷちと嫌な悲鳴を上げ、プロテクター越しに赤く染まっていく。
「ぐ……だ、大丈夫だ。落ち着け」
目の前が赤みを帯びていく。血液がおかしな方向に流れ始めているのか、視界がじわじわと赤いものに支配されていく。
「俺は生きるぞ……お前を連れてここを出る」
歯を食いしばって耐える。彼女の意識が戻ることをひたすら信じて耐える。
それまで俺が意識を手放すわけにはいかない。
「グガァァアアアッッ!!」
掴まれた腕ごと滅茶苦茶に振り回され、洞窟の硬い石の地面に叩きつけられる。
何度も、何度も。
一度目は受け身を取り、ダメージを軽減する事ができた。
だが、二度目、三度目ともなると痛みのあまり姿勢を維持する事ができない。
身体を守る防具が弾け飛び、インナーは擦り切れ、剥き出しになった背中はいくつもの傷口を作り、俺の体中の血液を根こそぎ吐き出していく。
「かはッ……まだまだ……まだまだ生きられるぜ……!」
激昂して振り回す彼女の手も彼女自身の青い血で染まっていた。長い爪が割れて指が何本かひしゃげている。
「はは……下手くそかよ」
俺は立ち上がる。背中は痛い。腕も脚も痛い。
どこが骨折して、どこが張り裂けて、どこが無くなっているのか、もう何も覚えていない。
ただ、俺の心臓はまだ動き続けている。それだけは分かる。
「よいせ……っと。一方的じゃ、悪い思い出になっちまうよな……?」
俺は戦闘の構えを取った。もちろん、相手を傷付ける為にだ。
「ガアアアアアアアッッ!!」
彼女は俺の挑発に対して癇癪を起こしたかのように突進し、肥大化した手を叩きつけに来る。
手は青い血で染まっているが、ひしゃげていた指は元通りになっていた。
「俺たち、これが最初の夫婦喧嘩になるぜ」
避ける体力は残ってない。相手のスピードを借りた捨て身の一撃を叩き込む。
後先を考えない足蹴りを、振り下ろされる彼女の手に。
「ぐうっ……!!」
「ギャアアアアアア!!」
突き出したかかとが彼女の指をへし折った。
めきめきと嘘みたいな音が身体を通じて聞こえてくる。
数秒おいて左足に激痛が走り、その場に倒れ込む。
「指と足じゃちょっと釣り合わんな……」
地面は血の池になっていた。
紫に輝く奇妙な色の血溜まり。
俺の赤い血と、彼女の青い血が混じった紫色。
「ハァ……ハァ」
おかしな興奮が込み上げてくる。
今まさに殺されようとしているというのに。
「ハァ……ハハハ」
俺は立ち上がる。
口元の笑みを隠せない。
「グウウオオオオオオオ!!」
彼女がまた手を振り上げる。
「ハハハハ! 本当に喧嘩慣れしてないな」
ひどくわくわくする。
今度は肘を使ってみようか。
俺はぐしゃぐしゃに潰されたはずの腕を前に突き出した。
めりめり。
彼女の手はひしゃげる。
俺の腕の骨は砕け散る。
「なあ、きっとお前も興奮してるんだろう? 疼きが収まらないんだろう?」
「ガアアアアアアアア!」
よかった。もはや化物はお前だけじゃなくなった。
つぎは膝だ。
めりめり。
ひしゃげる。
折れる。
砕ける。
紫色はより濃く。より強くなっていく。
「お互い気持ちよくなるために、本能のままに肌をあわせてるんだぞ? ハハハハ!」
「グアアアアアアアアアア」
彼女の顔はもう苦悶で歪んでいるんじゃない。笑っているんだ。
だってこんなに楽しくて、気持ちがいいんだから──。
永遠とも感じる時間。
初めての快感に狂酔しながら、休むこともなく、俺たちは三日三晩身体を重ね続けた。
最後はどちらが先に倒れたか分からない。折り重なるように仲良く寝た。
結果的に、お互い無傷なままだ。
夫婦喧嘩と初夜を同時に済ませたカップルなんて俺たちくらいなもんだろう。
まあ、まだプロポーズは出来てないから、気が早いかもしれないけどな。
少なくとも、まだ俺は結婚する気でいる。
そのためには五分刈りの男を見つけ、抗体を手に入れる必要がある。
長旅の予感がするが、俺はこの状態の彼女を絶対に見捨てたりはしない。
「ぐるる?」
「ああ、良い子だ。もうすぐ外に出られるぞ」
つないだ彼女の大きな手は少し震えていたけど、強く握ってやるとすぐにそれは収まった。