夜闇のメリエル
夜闇のメリエル。
それはその昔禁じられた魔法に手を出し、世に災いを招いた大罪人の名だ。
それまでは人々に慕われる良き魔女だったが、自らの力の強大さゆえに道を踏み外したのだという。
賢人たちによって退けられた彼女は、今は世の果ての森でひっそりと暮らしている。
長い時がたった今も人々は忘れてはいない。
彼女のしたことを。彼女の不遜を。
彼女も忘れてはいない。
あの時のことを。自分の罪を。
◆
旅立ちに必要なのはまず第一に思い切りだとミナは思う。
まだ準備が足りないあれをこれを持ってない、などとぐずついていればいつまでたってもどこにも行けない。
どこかで決意しなければならないのだ。
たとえ呪いで森の外には出られないのだとしても。
それでも挑戦することだけは諦めてはいけない。
師匠に足りないものはそういったことだと常々思う。
ミナはそこまで考えて頬を押さえた。
「で」
冷たい声が聞こえた。
老婆の眼鏡が冷たく光る。
「言い訳はそれで全部かい?」
「ふぁい……」
ミナは涙をこらえてうなずいた。
泣きそうだったのは思い切りつねられた頬がいたくて仕方なかったからだ。
金髪の頭もついでにはたかれた。背が低いからちょうどよく叩けるのだと。
さすがはかつての極悪人だと思う。師匠の折檻はいつも容赦のかけらもない。本当にひどい。
「何か?」
「別に」
慌てて首を振る。
老婆はため息をついて額を押さえた。
「まったく、本当にお前というやつは」
手に持っていたミナの箒を部屋の奥に放って、手近な椅子に腰かける。
肩掛けを直してじっとこちらを見た。
「どうしてそうなんだい。一体何が不満なんだい」
「全部。あ、いや、不満ない。全然。これホントです」
老婆の視線が尖るのを察して言い直す。
「別に嫌なことがなくても旅に出たいことってあるでしょ」
「分からんね。あんたが旅に出たい理由ってなんなんだい」
「それは……秘密」
指をもじもじと組みながら答えた。
老婆はそんなミナを胡散臭いものを見る目で眺める。
「ふうん……まあ興味もないが。だが何にしろ無駄だよ。この森にかけられた呪いのことは知っているだろう。あれがある限りわたしたちは外に出ることはできないんだ。どんなにあがこうともね」
「うん……」
声をしぼませるこちらを見て老婆は隣の椅子を示した。
座って地味な色のスカートを直すと、ガシガシと頭を撫でられる。
「気持ちは分かるし巻き込んで悪いとも思うけどね、諦めておくれ」
「巻き込むだなんて……」
師匠が昔犯した罪のことは少しだけ聞いたことがある。
そのせいでこの森に封じられたのだと。
そういう意味では確かに巻き込まれたといえなくもないのだろうが。
だがそれをいうならそもそも拾われていなければミナは今生きてすらいない。
「でも諦めたくない。わたしは絶対外に出る」
「……そうか」
老婆は小さくため息をついた。
「お婆ちゃんは森を出たくないの?」
ふと気になったので訊ねる。
老婆は肩をすくめた。
「特には。見るべきもんは大体見たしね」
「本当に? 満足してる?」
「ああ」
「じゃあさ。もし。もしもだよ? 時間が巻き戻せるとしたら……お婆ちゃんは昔に戻りたい?」
これを訊くのには勇気がいった。
案の定老婆はあっけにとられた顔をしていた。
「もし、昔やったことをなかったことにできるとしたら……」
「時間は巻き戻りなんてしない」
いやに強く老婆が言った。
ミナはその声の調子に驚いたが、老婆はさらに言葉を続けた。
「……巻き戻せちゃいけないんだ」
眼鏡の奥の目は怖くて、でもどこか悲しそうだった。
ミナは何も言えなかった。
老婆はそんな彼女を見て少し微笑み、手をたたいて立ち上がった。
「さあ今日の勉強を始めるよ。春風の精霊の瓶を持ってきな」
「……分かった」
ミナは薬瓶の棚へと駆け寄った。
言われた瓶を探しながら先ほどの師匠の言葉を思い出す。
『時間は巻き戻りはしない』
『……巻き戻せちゃいけないんだ』
その言葉の意味、そしてそう言った師匠の表情の意味。
今のミナにはまだわからなかった。
◆
夜闇のメリエル。
その昔大罪を犯し最果ての森に封じられた魔女。
彼女は今、拾った少女を一人、弟子としてとって育てている。
のちに夜明けの魔女と呼ばれることになる、今はまだあどけない彼女を。