第六話 世界を越えた邂逅
余力を残すために全力で走らず、かつあまりスピードを落としすぎない。この魔物は、決して足が早くない少女が転ぶまでその距離を一定に保ったまま近づいていた。要するに舐めているのだ。
限界が来て、足を止めたときがお前の最期だぞと、命を掌で転がす愉悦に浸ってやがる。
今の僕は、さしずめ熊ゴリラ教官主導のマラソン大会に参加しているようなものだ。参加賞で命をとられるとか体罰ってレベルじゃない。
「ウホ、ウホホウホウッホ!」
「ぐっ!?」
熊ゴリラが気の抜けるような雄叫びをあげながら走る速度をあげる。このときばかりは気合いをいれて走らないと距離を詰められる。さっきから何度かこの行動を繰り返しているが、どうやらあせる僕を見て楽しんでいるのだろう。
しばらくすると向こうがスピードを落とすのでこちらもペースを緩める。この緩急が地味に厳しく、インドア派の僕の心臓はすでにバクバクと音をたてている。
恨むような視線を熊ゴリラに向けると、喜ぶように、嘲るようにウキャキャと鳴いて手を叩く。…ほんとにいい性格してやがる。
そんな命のやり取り(一方的にむしられる側)をしていると、ようやく森の入り口にたどり着いた。
僕は躊躇うことなく森の奥に突き進む。足元に最善の注意を払いながら、なるべく木と木の感覚が狭いところを縫うように走る。これは…なかなか足腰に負担がかかって厳しいが、追い付かれれば命が無いのだ。体に鞭を打って足を動かし続ける。心臓が破裂せんくらいに自己主張しているが、今は止まれないんだ。
ひたすら奴の巨体が通りにくいであろう道を選んで突き進む。熊ゴリラが森で少女を追っていたときに木々がなぎ倒されていたのは、恐怖を煽るためってのもあるかもしれないが、恐らく…。
「ウホッ!!ウッ……ヴァーッ!!」
通りにくそうになんとか走っていたが、いよいよ焦れた熊ゴリラが乱暴な雄叫びをあげると、凶悪な太さの腕を使って行く手を阻む気をなぎ倒し始める。腕を振るう度に一本の木が根本からへし折られていく。
ゴリラの膂力はとんでもないって聞いたことあるけど、あそこまでではないだろう。あんなゴリラが標準だったら地球の覇者はゴリラ以外にあり得ない。
などと感心している場合じゃない!奴は木をなぎ倒すのに手間取っていて、倒れた木からは土煙が発生している。逃げるなら今しかない!
残しておいた余力の全てを使いきるつもりで走る。身体中が悲鳴をあげるが構わない。あれだけの距離を走ったのにあの熊ゴリラは息ひとつ乱していない。このままデスマラソンを続けても助かる見込みなんて無い。今を逃せば死ぬのは僕だ!
足元に注意を払うのも忘れて無我夢中で森を駆ける。枝につまずいてつんのめりそうになっても、疲労で重い足腰を強引に踏ん張らせて駆ける。転んで擦りむいてもすぐ立ち上がり、枝に頭を打ち付けて視界がぶれても根性で駆ける。どれ程の距離を走っていただろう…
もう―――限界だ!
力尽きて転がるように、近くの茂みに身を投げる。肉体が限界なのだろう、もはや指一本動かせない。呼吸はぐちゃぐちゃに乱れて汗が吹き出す。あちこちに擦過傷ができていて、鋭い痛みが止まらない。
だが―――
逃げ、切った、ぞ…。ざま、みや、がれ…。クソゴリラ…。
あれだけ近くで聞こえていた雄叫びが今は聞こえない。木々が倒れる音もしない。辺り一面が静寂に支配されていた。
今はとりあえず休もう。一晩野宿になる可能性もあるが、今でていって熊ゴリラに見つかるわけにもいかない。幸いあれだけ森を破壊してくれたんだ。破壊の跡さえ見つければ村まではなんとか
「ヴォオオオォォォッッ!!」
最悪だ…。まだ十分も休めていないってのに…。茂みの隙間から声のした方を覗くと、そこにいたのは案の定熊ゴリラ。辺りを見回しているのは当然僕を探しているのだろう。
いくらなんでもしつこすぎる。あんなに興奮しているのだ、さっきみたいに悠長にマラソンに付き合ってはくれないだろう…。見つかったら最期だ。今度は命を懸けたかくれんぼとか…異世界にはもっと楽しい遊びは無いものかね…。
熊ゴリラは周囲をぐるりと見渡し、獲物が見付からないと分かると、大きく息を吸って膨らんだ胸部を掌で叩いてポコポコという音を何度も響かせた。
あれは…確かドラミングだったっけか。テレビで見たような気がするが、あれの意味は威嚇だったか?いや、仲間に危険を知らせたり、逆に呼んだりだったか―――はっ!こんな状況で仲間なんて呼ばれたらもう…逃げられない!
くそっ!どうする?仲間が来る前に一か八か逃げるか?無理だ!もう一分だって走り続けられるかわからない!来るかもわからない救援を待つか?仲間もろともいなくなるまで粘るか…。
逃げ出すか否かと逡巡していたときであった。頭上から巨大な鳥のような生物が熊ゴリラの元へと降り立った。鷲を巨大化させたような外見をしており、背中には一人の人間を乗せていた。
黒衣を纏っている短い銀髪の人物は、巨大鷲から飛び降り、ピイッと口笛をならすと巨大鷲を飛び立たせる。その様子を見送った人物は、未だ興奮さめやらない熊ゴリラへと近づく。
馬鹿な!殺されるぞ!と目の前の人物の奇行を観察してると、とんでもない言葉を口にした。
「仲間を呼んでも無駄だ。この森の魔物はすでに全員園の中だ。お前の仲間もな。しかし、どうしたんだ?ずいぶん荒れているな」
声から察するに男、であろう人物は魔物に対して喋っている。熊ゴリラの仲間を全員…言っていることがよく分からない。それはどうでもいい。いや、どうでもよくはないのだが、ある事実の衝撃があまりにも強すぎてその内容は霞んでしまった。
日本語を…喋っている…だと!?
「ヴォオ!ヴァォォォッッ!」
「何があったか詳細を…チッ。聞けよ。やっぱINT無振りじゃこんなもんか。それともAGGとCLUに振りすぎて馬鹿になったのか?とりあえずポイントをINTに振るか。STRが過剰なら少し移すか…。ったく適当にSTRとAGGに振っておけば楽な仕事だと」
「あ、あなたは!日本語が喋れるんですか!?」
迂闊だ。浅慮の極みだ。だが、肉体的にも精神的にも限界だったのだろう。言葉が通じる相手を見つけたからといって、今しがた命を狙われていた者の前に姿を現すなどと…。
「…は?日本語?いや、ただ言語スキルを持っているだけ…お前日本人か?なんでここに」
「ウホッ!ウホホウホウッホ!」
騒ぎだす熊ゴリラを見て失策に気付く。だが同時に光明を見出だすこともできた!会話の内容から察するに魔物を操っているのはこの男で、どうやら日本を知っているみたいだ。こちらの言語も通じてる。交渉の余地はあるはずだ。
「…へぇ。こいつがお前から逃げきった…ねぇ。見たところただの日本人のガキじゃねぇか。誰でも貰える言語スキルすら持ってないってことは、神の仕業でこの世界にきた訳ではないのか?どうなんだ、ガキ」
熊ゴリラの言葉がわかるのだろう、ことの詳細は伝わったようだ。だが、あまり状況が芳しくないようだ。口調から察するにあまり歓迎されていない。
そもそも言語スキルが標準装備ってなんだよ。チート与えないどころか最低限のスキルすらくれないなんて、改めてサービス悪すぎだろあの神様。
だが、この人は現時点でこの世界での唯一の希望だ。僕の言語を理解でき、恐らく魔物を操るという強力なスキルを持っている。……その魔物が僕や少女を命の危機に追いやったわけだが、故意ではない可能性もある。態度は悪いが事情を素直に話せば助力してくれるかもしれない。
「ぼ、僕はその…神様に見捨てられてこの世界に落とされたといいますか…実はここがどこだか」
「ヴォオォォォッッ!!」
「ひっ!」
「待て!控えろ!」
僕の話を遮って突撃してきた熊ゴリラを男が声で制する。男が止めていなければ僕は死んでいただろう。
今日だけで何回死にそうな目に遭えばいいんだ…。僕が感謝と礼をすると、男は続けろと促す。
「あ、は、はい。それで、ここがどこだかわからないまま魔物に襲われて、逃げ続けるうちに今こういう状況に」
「んなことはいい。それはいまここのゴリラから聞いた。スキルだよスキル。なんかないのか?ステータスオープンくらいできるだろ?」
「あ、いや、なんか試してみたんですけど文字化けしててよくわからないんですよ」
「はぁ?文字化け?パソコンじゃあるまいし…言語スキルを持ってない影響か?まあいい。特別高いステータスとかねぇのか?こいつから逃げきったんだから普通の人間より足が早いとか力が強いとかは?」
「えっと…それらしいことは特には…。魔法とかも使えないか試してみたんですけど…上手くいかなかったです」
「魔法もスキルも無くてステータスも人並みのガキに逃げられたってことか。再調整が必要だな。ステ振りなおしか…やっぱAGLも必要か?いや、ただ単に性格の問題だったとするとINTを強めに…でもどこからポイントを捻出するか…」
僕の話を聞いた男はぶつぶつと呟くと、なにもない空間を指でなぞりだした。恐らくあれがスキルなのだろう。魔物を仲間にできてステータスを自由に振り分けられる…とかであろうか?
「あ、あの、あなたの使役している魔物がこの近くの村を襲ってしまう危険があるんです。出来れば人を襲わないようにしてもらえないでしょうか?…あと、非常に不躾なお願いなのは分かっていますが…僕は何処かへいくあても能力もなくて…少しだけでいいので力を貸して頂けませんか?勿論恩は返します。絶対に返します。だから…」
長いこと唸って指を動かしていた男に精一杯懇願する。すると男は顔をこちらに向けて少し驚いたような顔をする。
いや、まあ確かに図々しいお願いをしているのは重々承知だ。だけど、この機を逃せば次にいつまともに会話できる人と会えるかわからない。惨めでも情けなくてもいい。今はこの人にすがりつくしかない。
「………そうだな、一つ世間話をしようか。俺のスキルはもう予想できてるな。俺は魔物使いだ。神から授かれるスキルを全て魔物を使役する能力のために注ぎ込んだ。
さて、あらゆるスキルを得られる選択肢を捨ててまで取得したこの能力、なかなかに素晴らしくてなぁ。魔物だらけの森だろうが山だろうが、俺にとってはただのペットがたくさんいる庭だ。で、俺はそのペット達のことを意のままに別空間で飼育することが出来るんだ。動物園って俺は読んでる。なかなかイカすセンスだと思わないか?
さておき、そのペット達がまあ豊富な種類がいるわけだ。そいつらのステータスを弄って、体つきや持ち前の爪や牙といった武器は勿論、性格や思考力なんかも改造できたりしてな、最高のモンスターに仕上げるのは中々に新鮮なゲームをやってるみたいだぜ?」
心底楽しそうに男が語る。なんだろう、少し狂気を感じる…。
「だがなぁ…ほんと良くできたゲームみたいにな…俺のレベルが足りないと、もとから強い魔物の改造には制限がかかるんだよ。あの大鷲を見ただろ?あいつは中々に珍しくてお気に入りの魔物の一体なんだが、俺のレベルだと戦闘力を削らないと飛行力と運搬能力を持たせてやれないんだよ。
これじゃ自衛手段が心もとなくてな…可愛い相棒がやられるのを避けたい俺はレベルアップを目指すわけだが…さて質問だ。魔物使いがレベルアップをするにはどうしたらいいと思う?勿論、魔物を倒すなんて選択肢は無いからな?」
男は楽しそうに語っていたのだが、突然そんな質問を振ってくる。魔物ではなく、魔物使いがレベルアップをする方法…か。
「より多くの魔物を使役する、もしくは魔物同士を戦わせる…とか?」
「あぁそうだろう。だいたいお前が考え付くのはその程度だと思ったよ。先に言うぞ?両方ハズレだ。使役出来る魔物はレベルアップをするごとに増えていく。お前の予想は真逆だ。魔物同士を戦わせても成長するのは魔物だけだ。さあ分かるかな?分からんよなぁ…教えてやるよ」
その笑みは、見たことがある。猪型の魔物が、熊ゴリラが浮かべていた醜悪で悪辣な、心底恐怖を煽るような笑み。
「人ってな、経験値持ってるんだよ。」
唯一の希望は今、断たれた。
AGG=aggression 攻撃性
CLU=cruelty 残虐性
という造語。