第五話 洗礼は続く
突然顔を殴られて意識が飛びかける。どこか切れたのだろう、口のなかに血の味が広がる。痛みはあるが、不意に殴られて茫然としているのか、麻痺しているように感じる。
「▼▲♯♯◇&§$◯〇!%%*♪※//\ ̄&&#∇!∽√∟⊿∀⊥⊆≦∞∵∑⊿ефщΨΦΞДШ!」
言葉は通じないが、怒っているのがわかる。眉間にしわを寄せて怒鳴っていれば誰だってそう感じるだろう。でも、なんでここまで怒っているのだろうか。初対面の人間を殴るなんて相当なことだ。いや、この世界では当たり前なのか…?
「ШΦ!Å¥㎡£№〓×∨⊆Å!√∑≪∬⊿∟∠∇⇔∧!∈⇒¬∞∴★§※◇!▽¶‡●†♯♭§▼※!」
なおも怒鳴りながら女性は村を指差した。ああ…いつの間にか村の近くまで来ていたのか。それでか、あんな化物を村の近くまで誘導してくるな馬鹿野郎ってことだろう。
ってことは『死ぬなら向こうで死ね!こっちを巻き込むな!』ってことか。いくらなんでもそれはあんまり…いや、ここは異世界なんだ。情けや慈悲などとは無関係な世界なのかもしれない。
いや…当然か。現代日本でも『包丁を持った殺人鬼に追われている!そいつはこっちにくるだろうが匿ってくれ!』とか言われて自宅に押し掛けられたら無理矢理にでも追い返すだろう。わが身大事でなくて何が人間か。
むしろ、わが身どころかあの村のことを考えてここまで怒り、僕のことを諫めているのだとしたら…どこぞの神様ではないが、それは尊いことで、敬意を表するべきなのかもしれない。自分が損害を被ったから怒るのではなく、他人のことを本気で想って怒るなんて僕には無理かもしれない。
女性はその後に一言二言告げてから村へと戻っていった。迷惑だから早くどこかへ行けと言われているであろうことは間違いない。
僕としても…これ以上この村に迷惑をかけるのも殴られるのも勘弁だ。ここが一体何処なのか、どこへいけばどんな場所に着くのか…。なにも分からないが、立ち尽くしていてもなにも始まらない。何処かへ行こう、ただしあの森は避けよう…。
思い立ち、当面は森の反対方向にでも進んでみようとしたら膝が折れる。立ち上がろうとしても体が震えて言うことを聞かない。何で、動かないんだ、何で…。
殴られて飛んでいた記憶が…震える足から、動かない体から、徐々に蘇ってくる。
獲物を蹂躙するのが目的であるかのような凶悪な肉体。どす黒い感情を宿したかのような双眸。嗜虐を愉しむように歪む表情。圧倒的強者に命を弄ばれた感覚。
思いだし、震える。持ち上げられた両前足が体に振り下ろされていたら…一体どれ程の激痛が走っただろう。両足を砕かれたら、内蔵を潰されたら…。あの女性がいたから助かったのだ。命を助けられた代償が、頬を殴られ口内を切った程度。…なんて安い授業料だ。この世界では恐らくこれが日常茶飯事なのだろう。力を持たない者は強者の影に怯えるという古来の摂理がここにある。
何処かへ行こう?何処へいくというのだ?獣の腹の中か?自殺行為も甚だしい。
あの村へ行こう。今さら恥も外聞もない。怒られたら土下座でも何でもする。石を投げられたら甘んじて受け入れる。奴隷のような扱いを受けようとも構わない。ここにいたら命がいくつあっても足りない。
僕は…異能もチートも持ち合わせていない、ただの最底辺の人間なのだから。
いつまで呆けていたのだろう、震える体を煩わしく思いながら這いずるように村へと向かう。森からはだいぶ離れることができた。村に入れれば少なくとも命の危険からは遠ざかるだろう。早く、早く安全な場所へ―――
―――森の方から、悲鳴のような声が聞こえた。
振り返ってみるが誰もいない。構うな!幻聴だ!早く身の安全を―――
森の木が倒壊していく。一つ、また一つ。森の入り口付近の木も倒れだした。木々をなぎ倒して進むなんて魔物にしか出来ないだろう。それがこちらへ近付いてくる。
いやだ。もう嫌だ!あんな思いはしたくない!あんな化物を僕にどうにか出来るはずないんだ!
見るな。次に見たらもう立ち上がれない…心がやられる。そう理解していたのに見てしまった。悲鳴が聞こえたから。こんどははっきりと、女の子の声が…。
漆黒の毛並みに長い爪、両足立ちで三メートルはあるだろうかという巨大な体躯。体毛に覆われているにもかかわらず、筋骨隆々な様がはっきりと見てとれる。特に腕は異常なまでに膨れ上がっている。見た目は熊とゴリラを掛け合わせたかのような魔物で、猪型の魔物と同様に双眸が赤く輝いている。勝てないと悟る。本能は相変わらず全力でもって逃走を促す。だが…
「∇∑!∇∑※※!!」
魔物の前方には、半狂乱になって走る十歳ほどの年齢の女の子がいた。携帯していた食料だろうか、丸い団子のようなものを魔物の近くに投げ付けているが、魔物は目もくれず女の子を追いかけている。女の子の向かう先は僕…いや、正しくは村の入り口なのだろうが、今は同じことだ。このままだとさっきの二の舞だ。
助けを、助けを呼ばないと!さっきの赤い髪の女性を呼べばなんとか…!
声を絞り出そうとするが思うようにいかない。未だに体がガタガタと情けなく震えている。なにも出来ないまま震えていると、魔物も少女もこちらへかなり近付いてきていた。
やめろ!ふざけるな!こっちにくるなよ僕が殺されるだろうがぁっ!!
少女と目が合う。その表情は困惑と驚愕で歪んだ。このまま進めば動けない僕が魔物に襲われると、そう判断したのか急な方向転換をしようとして…バランスを崩して地に伏した。すかさず魔物が接近して少女を見下ろす。とんでもない体格差に気圧されたのか、少女は震えながらこちらを見る。
…そんな目を向けられてもどうしようもない。僕にはあの女性のような人を救う力は無い。出来ることなんて、精々がこのまま少女一人を囮にして逃げ出し、村に報告をいれて二次災害を防ぐくらいだ。
…そうだよ、それでいいじゃないか!村に危険を知らせることができれば、村人も少しは信用してくれるかもしれない。こんな状況じゃ、二人とも助かるなんて都合のいい展開は期待できない。仕方ないだろう、わが身大事なのが人間なんだから!
決意を固めてなんとか立ち上がり少女を見る。謝罪なんて自己満足だと分かりきっている。どうせこの少女はあと幾ばくかの命だ。それでも頭を下げようとした次の瞬間だった。少女は村の入り口を指差して叫んだ後、僕に対して笑顔を向けた。涙にまみれた、恐怖を圧し殺したような笑顔だった。
頭を殴られたような気分だ。さっきの女性に殴られた時よりもはるかに重く、痛く、僕を諫めた。
この少女はさっき何をした?あのまま僕を見捨てて自分一人で村まで行けば命は助かったのに、その選択を捨ててまで僕を救おうとして命の危機にさらされている。そのまま逃げればよかったのだ。それが…僕のやろうとしていたことだ。
村の入り口を指差して叫んだこと…あそこにいけば助かることを示しているのか、早く危険を知らせてくれと言っていたのか。少なくとも僕を罵るような言葉ではなかった。
そしてあの笑顔…。後々僕が罪悪感に苛まれないようにとでも気を遣ったのか?私は大丈夫だから早く皆に知らせて…とでも?年端もいかない少女がこれほどまでの決意をしているのに…僕はまだこの世界を理解していなかった。弱肉強食だから他人を犠牲にしてでも助かればいいだなんて…そんなのただの動物じゃないか!
見れば、器用に座り込んだ魔物が爪を少女に振り下ろそうと腕を持ち上げているところだった。少女は自分の死を理解しているのだろう、固く目を閉じて衣服を掴み震えている。魔物は猪型と同じように歪な笑顔を浮かべながら僕を見据えていた。爪をいつまでも振り下ろさないところを見るに、やはりこいつらは弱者をなぶって楽しんでいる様にしか見えない。『お前が逃げたらこいつやっちゃうけど、いいの?』とばかりに。三流悪役の吐きそうな台詞が似合う顔だ。魔物はどいつもこいつもクソばかりか!
「いいわけ…ねぇだろうがああぁぁっ!!」
落ちていた石を拾って魔物の顔面に向かって投げつける。魔物は首を傾けて石をかわすと、歪な笑みを一層深くした。『どうやらお前から先に死にたいようだな』だろうか。どこまでも三流悪役の台詞が似合いそうな顔だ。だが、なんとかヘイトは稼げたか。
「畜生風情が人様見下してんじゃねぇ!このロリコン熊ゴリラが!かかってこいおら!」
続けて二つ石を投げつける。顔に向かって投げたものは同様に首を傾けて避けられ、胴体に投げたものはその太い腕で弾かれた。標的を僕に定めた魔物は、立ち上がってその凶悪な爪を見せつける。『まず貴様からこの爪の錆にしてくれよう』…かっこいいじゃねぇか。
のしのしと近づいてきたのを確認して、同じように歩いて距離を取りながら体の具合を確かめる。よし、もう震えていない。歩幅の差で距離がつまってきたところで小走りで森の方へ向かう。村はまずい、このまま突っ込んだら確実に被害が出る。草原だと恐らく全力で走らないと捕まるだろう。少女がここまで逃げてこれたのは森の入り組んだ地形があの巨体を阻んでいたからだろう。魔物がもう一匹出て来て潰しあってくれたら上等だ。そう思い走り出す。
少女が再び標的にならないよう大回りで森を目指す。振り返って少女を見ると、何か叫んでいたので会心の笑顔とサムズアップで返す。さっきのお返しだ。これは惚れられたかな。
………能力が最底辺でも、人として最底辺になるつもりはない!