満員電車でよだれ拭いてあげる話
百合書くか~と思って百合書こうと思ったら(これは百合なの……?)となってタイトルとタグから百合を外した感じの作品です。
最近、少し面白い子と顔を合わせるようになった。
会社に向かう電車の中で酷い人いきれの中で、とことこ席に着いて人目を気にせずふああと欠伸をして、そのまますやすや眠る女の子。
女の子と言っても、スーツを着て鞄を持っているから私と同じように会社で働いているのだろうが、茶色がかった栗色の髪はつやつや光っていて、口を開けて舟をこぎながら眠りこける姿は、あまりにあどけなく、ついつい女の子、と若く見てしまう。
私が降りるよりも先にこの子の降車駅があるのだが、いつもいつも駅の直前でハッと目を覚まし、右左、右左と、忙しなく首をふり、慌てて立ち上がる姿は見慣れたものだ。
電車に姿を見せるようになった時期から考えて、四月から新社会人になったらしいけど、この子はいつも座って寝ている。忙しいのかと心配になるし、歩いている最中に寝惚けてこけたりしないか不安にもなる。
そんな不安の絶えない彼女であるけれど、私は彼女を見るのが一日の癒しになっていた。
朝の早い時間、背格好や年齢に不釣合いな幼さを見せて努力し働く彼女の姿があればこそ、私も朝から頑張ろうという気持ちになれるのだ。
そんなある日、もはや恒例となった船漕ぎ少女を見ていると、少し気になることを発見した。
気になるというのは、まあ大したことではないが、口元からツヤと光る唾液が垂れて顎の近くまで筋を作っているということだ。
今までも口を開けて寝ていることは何度もあったが、ここまで大胆、そしてはしたない姿を見せたことはない。特に服を汚すような真似は。
どうする? と頭の中で疑問符が浮かぶ。
どうする、と言っても普通に肩を叩き声でもかけて起こしてやれば、最良の解決法と考えられる。
だがその場合、唾液が流れてますよ、とこの人混みの他の人に、彼女の恥を知らせることになる。電車で寝ることが日課になるような彼女の疲労を癒す時間を今後減らし得るのは避けたい。
なら他にどのような手段が残されているだろうか。強引に起こしてしまえば彼女自身が気付いて拭くだろうか? いやいつも慌てて首を振るのだ、その時に唾液が飛んでしまうかもしれない。
それで私は――思わず自分のハンカチで、彼女の口元を拭った。
却って目立つかも、と思ったが時既に遅し、セピアを基調としたシックなデザインのハンカチにじわりと染みができ、生暖かい感触が指に伝わる。
と同時に、彼女がパッと目を開いた。
ぱちぱちと二度瞬きをしてから、慌てて退いた彼女は、勢い余って後ろの窓に頭をぶつけた。
「あっ、大丈夫!?」
「いてて……大丈夫です、すいません……。あ! じゃなくて! 違います! すいません!」
心配されたことと、涎を拭かれたことで二度もすいませんと謝られた。両方とも気にしていないからまとめて「いえいえ」と返事をしつつ、ハンカチをポケットにしまう。
「その、気持ちよさそうに寝ていたから……」
私も何の言い訳をしているのか、若干彼女に抱いた申し訳なさに似た気持ちを誤魔化すように手を振るが、彼女はその倍以上の速さで両手をぶんぶんと振りまくる。
「いえいえ本当に、そのなんというか、汚してしまいましたよね!? うわぁどうしよう」
えーとえーと、とどこかの坊主のように頭を指でくるくる巻いてつむじを作っている彼女は、本当に一挙手一投足子供のようでほほえましい。
お礼なんて、別にいいのに――そう思っていると、彼女はぽんと手を打った。
「あの、今晩お食事一緒にどうですか? 美味しいお店知ってるんですよ」
そう微笑む彼女に、私はつい頷いた。
「……はい」
「よしっ! それじゃ……あっ! この駅! この駅で待ってますから!」
図らずして既に彼女の降りる駅に電車はついていた。恨めしいタイミングに憤りもあるが、彼女は気にせず急いで立ち上がる。
「私待ってますからね! ずっと待ってますから!」
慌ただしく走っていく彼女を見送りながら、その空いた席に座り、静かに温もりを感じた。
今日は一つ楽しみが増えた。
今夜は、今度は、少しは彼女の話を聞いてみよう。
私の話をしてみよう。
彼女の、名前を聞こう。