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そのような事件から三日後。……ええ、三日後である。
俺は確かに、その声の主に助けられ、五体満足……いや、うん、確かにその時は五体満足で逃げ出せたはずだ。
ところがである。逃げ出して数十分もしないうちに身体中から悲鳴が上がり、節々どころか全筋肉が痛み始め、まともに動けるような状態ではなくなり、近くを通りかかった心優しい見知らぬ人に助けられ、俺はようやっと自室に帰ってきた。
災難は続くもので、その全身の痛みは一晩経っても治まるところを知らず、翌日は一日中、身体の痛みによってまともに眠る事が出来ず、湿布を貼っていても痛みが和らぐ事はなく、俺がそんな災厄から逃れる事が出来たのは、その翌日、事件から二日後であった。
二日目になると大分痛みも和らぎ、ようやっと自分で自分の体を動かせる程度にまで回復し、急激に襲い掛かってきた空腹感と睡眠欲と疲労感によって、食後すぐに意識が途切れてしまったりもした。
学生としての本分を全うできるような状態になったのは今日、三日目になってからである。だが、断っておこう。今もスゲェ痛い。万全とは言えない状態だ。
昨日、一昨日と学校を休んだわけだが、その時の言い訳が全身に及ぶ激痛である、と連絡した時の教師や友人の冷めた態度たるや、今でも忘れる事が出来ない。『お前、そんな言い訳が通ると思ってんの?』と言わんばかりの、冷笑を含んだ電話口の声、メールの文面……俺は人々の心から『信じる心』が失われていると実感した。
事実、見舞いに来た友人の中で、俺の状態を見るまで全く信じていなかった人間の割合は優に九割を超えていた。あいつらは本当に俺の友人なのだろうか、と疑心暗鬼にも囚われたものである。
そんな猜疑心に取り付かれた二日間から抜け出し、俺はまた登校する事が可能になった。
俺が寝床としている学校指定の寮から十数メートルの校門までが、これほど遠く感じるのは初めてではなかろうか、と思う。
そんな満身創痍の俺が、地を這うかのように学校へ向かっていると、校門近くがやけにざわめいていた。
痛む身体を伸ばして覗き込んでみると、どうやら抜き打ちの身だしなみチェックが入っているらしい。生徒会の連中も巻き込んで、本格的にやっているようである。何人かすり抜けようとした生徒が捕まって、強制的に薄い色の頭髪を染め直されているようである。
哀れな……。俺のようにいつでも校則に触れない程度の身だしなみを心がけていれば何の心配もないというのに。
「先輩、止まってください」
肩をつかまれ、呼び止められた。触れられた瞬間に鋭い痛みが走ったが、ここはやせ我慢しておこう。
「俺を呼び止める輩は、一体どこのどいつだ!? 俺の身だしなみのどこに不満があるというんだ!?」
「いいえ、そうではなく」
振り返ると、そこにいたのは見知った顔であった。
「おやおや、これは蓮野ではないか。三日ぶり? 今日もブレザー姿が良く似合う」
「はい、お久しぶりです」
俺を呼び止めた小柄な少女は、我が高校の一年生。俺の数少ない他学年の知り合いである。名前を蓮野鼎という。
短く切り揃えた黒髪、人を睨みつけているのではないかと思ってしまうキツイ視線、不満を吐き出したくてたまらないといった風体の口元、校則に定められたとおりの制服の着こなし……。
顔は悪くない、と言うか可愛い部類であるはずなのに、彼女の態度がかなりアレなので、男女問わず、あまり交友関係は広くないらしい。
「で、何か用かね、マイディア後輩」
「気持ち悪いんで、ディアとか言わないで下さい」
口も悪いのを付け加えておこう。
「先輩……昨日と一昨日、休んでたでしょう」
「ああ、ちょっと壮絶な筋肉痛に襲われてな」
「言い訳ならもう少しマシなものを考えた方がいいと思いますよ」
「いや、事実なんだが……」
「まぁそれはともかく」
蓮野は俺の周りをグルリと周り、刺さるような視線でねめ回した。
何だコイツ、ガン飛ばしてるのか?
「ケンカを売るならもっと上手な方法があるぞ」
「私がどうして、先輩にケンカを売る必要があるんですか」
「じゃあ何してるんだよ」
「……いえ、身体に異常はなさそうだな、と」
「これでも結構、筋肉痛が長続きしてるんだがな」
実際、今でも痛い。何もしてなくても痛い。立ってるだけで痛い。
痛風とかになると、こんな感じなのだろうか、と思ってしまうぐらいだ。
「じゃあ先輩、行っていいですよ」
「え!? ホントにそれだけ!?」
「ええ、身だしなみにも特に問題はなさそうなので。はい、次の方ー」
「いやいやいや、蓮野さん!? もっとこう、重大な案件を抱えてるから俺を呼び止めたんじゃないの!? 久々に俺に会えて、感激のあまりハグしたい衝動に駆られた! とか、俺は一向に構いませんよ!?」
「そんなワケないじゃないですか。邪魔だから早く行ってください」
くっ、この辛辣でクールな物言いが身体に響くぜ……。
蓮野に追い払われるようにして、俺はズルズルと足を引きずって校舎にやってくる。
ふと振り返ると、蓮野はいつも通り淡々と、身だしなみ検査をしていた。
「……って、あれ? そう言えばアイツ、生徒会だったっけ?」
いや、確か蓮野は部活動や委員会には所属してなかったはず。もちろん、生徒会メンバーでもなかったはずだ。そもそも生徒会役員は秋に行われる選挙によって決定するので、今年の新入生である蓮野が生徒会のメンバーになれるはずもない。
しかし他の連中を見ても、一般生徒は蓮野のみ。どうしてアイツだけ手伝わされてるのだろうか? 謎だ。
『へーぇ、可愛いじゃん。あの娘、アンタの何なの?』
唐突に、声が聞こえる。
聞こえた瞬間に、自然と顔をしかめてしまった。
『もしかして、あの娘、二日連続でサボったアンタの事が心配で朝早くから校門で待ってたんじゃないの? くぁ~健気ぇ~』
「改めて言っておくぞ。俺に話しかけるな」
『おいおい、命の恩人に対して、その言い方はないんじゃない?』
声の降って来た先、俺の頭上を見ると不思議な事に、セーラー服姿の女の子がプカプカと宙に浮いていた。……だが、そんな光景もこの三日で慣れてしまった。
『もしかして、あの娘ってアンタの彼女とか? 釣り合わないんじゃない?』
「ばっかやろう、お前、俺と蓮野ならベストカップルだっつの。明日にはペアルックで街中をイチャイチャしながら歩いてても何の違和感もないっての」
『じゃあ、彼女なわけ?』
「……違うけど」
『ふーん、まぁ別にいいけどさ』
俺の周りをハエのように鬱陶しく飛び回っているこの女の子、名前は八乙女寅子というらしい。見ての通り、普通ではない。
本人曰く幽霊であるらしい。
実際、幽霊と自称するだけあって、何の種も仕掛けもなく浮遊が可能で、物理的に触れる事が出来ず、俺以外の人間には見えていないらしい。
「良いか、八乙女寅子。お前は恩着せがましく、何度も何度も『命の恩人』だと言い張るがな。あの後、どんな目にあったかはよぉっく知ってるよな?」
『酷い筋肉痛でしょ? そんなの、普段から鍛えてないアンタが悪いんじゃん。あたしの所為じゃないしぃ』
そう、俺はこの八乙女寅子という幽霊に助けられた。百歩譲ってそこは認めても良い。
三日前、何故だか知らんが唐突に、ガラの悪い連中に追い掛け回され、挟み撃ちにあって絶体絶命の状況の時、どこからともなく声をかけてきたのがこの幽霊だ。
コイツの甘言に惑わされ、飛びついてしまったのが俺の運の尽きである。
八乙女に乗り移られた俺は、ヤツのいいように身体を動かされ、俺の身体がついていけないようなハードな運動をこなしたのである。
具体的に言うなら、僅か数分で追っ手十数人をノックアウトである。普段の俺ならば絶対に無理。逆に囲まれてボッコボコにされるのがオチであろう。
だが、八乙女はそれを成し遂げた。俺自身の記憶や意識は乗っ取られた間も残っていたが、それでも何が起こったのかほとんど理解できないほど素早く、的確に、追っ手どもを千切っては投げ、千切っては投げする姿は、正しく雄姿と呼んで差し支えなかっただろう。
だが、それは俺の限界を超えた運動であった。
無理やりリミッターを外され、悲鳴を上げても聞き届けられない俺の身体は、全身の筋繊維がボロボロになり、再生をする間に痛みを押し付ける。それが二日間も俺を寝床に拘束した筋肉痛の原因であった。
確かに、俺は八乙女に助けられた。だが、その代償がアレでは割に合わない。詐欺の手口もかくやと言うレベルだ。これで素直にありがとうと言える人間がいたなら、それは聖人君子か何かだろう。
しかもその後、俺に取り憑いたまま離れず、三日間ずっと俺の周りをふわふわと飛び回っているのだ。迷惑この上ない。
『まぁ、筋肉痛の話はともかくよ。あたしもアンタを助けた事を、ことさら恩に着せようとは思わないし』
どこがだ。事ある毎に『命の恩人』を強調しやがって。
『問題はアンタがあたしの未練を断ち切ってくれるかどうか、よ』
「お前の未練、ねぇ」
幽霊とはこの世に未練を残し、死んでしまった者の思念が残る事だという。
八乙女の場合もその例に漏れず、彼女も何かしらの未練を残して死んでしまったが故に、幽霊となって街を彷徨い、結果として俺に取り憑いてしまったというわけだ。
八乙女を成仏させるには、その未練を断ち切る、もしくは願いを成就させてやるか、もしくは強制的にお払いしてやるか、ぐらいのものだが……調べてみた所、お払いはやたら費用がかさむ。
神社で祝詞を上げてもらうだけで、どうしてあんなに謝礼が必要なのか、俺には全く理解が出来ないし、そんな金を捻出するような資金があるわけもない。つまりは、手っ取り早く八乙女をどうにかしたいなら、コイツの願いを成就させるのが良いわけだ。
『あたしの未練は、一昨日、話したよね?』
「ああ、確か……青春を謳歌すること、だったか?」
この娘、享年が俺と同年齢であったらしい。
若くしてこの世を去った八乙女は、青春とやらを充分に満喫する事が出来ず、それが未練となって霊魂がこの世に残ってしまったとか。なんて漠然とした願望であろうか。
「どうやったらその願いが成就できるんだよ?」
『そんな具体的なこと、私が知るわけないでしょ』
その上、この投げっぱなしだ。
八乙女自身は気楽なものだが、突然幽霊に憑かれてしまった俺の身にもなってほしい。
『まぁ、あたしはそうそう乗り換えるつもりはないし、せいぜい気張りなさいよ』
「どこかに塩でもないものかな……っ!」
『あっははは! 塩程度で祓えるなら幽霊なんかやってないっつーの!』
やはり、現状はかなり苦しい状況らしい。くそぅ。




