3-5
それから一時間もしない内だろうか。
俺が五時間目の授業を受けている時だ。
板書の量が多くて有名な世界史の教師は、今日も今日とて黒板を所狭しと使い、それだけでは飽き足らず、書いては消し、書いては消しを繰り返してチョークと生徒のノートを消費させていく。
俺もその板書スピードに置いていかれないように、なんとかこんとかノートにペンを走らせていたのだが……
『アンタ、これでいいと思ってるの?』
不意に声が聞こえた。
『……八乙女か!?』
声を忘れるはずもない。と言うより、この念話と言う特殊なコンタクト方法を取ってくるヤツが他にいるとは思えない。
『お前、どこにいるんだよ! こちとら結構探し回ったんだぞ!』
『あたしはこれでいいのか、って聞いてるのよ』
『何の話だ?』
かなり一方的な話し方に違和感を覚えたが、八乙女は構わず続ける。
『アンタ、目前の利に目がくらんで、大局が見えてないんじゃない?』
『話が見えないって言ってるだろ。もっと詳しく話せよ』
『あたしが言えるのはそれだけよ。せいぜい後悔しないようにね』
「おい、待っ……あ」
つい、言葉が口を突いて出てしまった。
チョークが黒板を叩く音が響いていた教室に、俺の声は良く通った。
「どうした?」
教師が振り返って俺を見る。
適当に愛想笑いをしながら
「あ、いや、まだその辺、書き写してないんで……」
などとお茶を濁す。良かった、うまくはぐらかせそうなネタがあって。
「早くしろよ。まだまだ書く事はたくさんあるぞ!」
にこやかな教師の言葉に、生徒たちの辟易したため息が返った。
結局、八乙女からの交信はそれ以来なく、ヤツの言葉の真意も汲み取れないまま放課後。
わからないことはとりあえず放っておいて、俺は取り付けた約束通り、図書室へとやってきた。
閑散とした図書室の中には、やはり窓際の席に陣取っているアン先輩の姿があった。
「やぁ、君から呼び出してくるということは、何か掴んだかな?」
「ええ、その事で話があります」
したり顔を作りながら、俺はアン先輩の対面に座る。
対するアン先輩も、どこか含みのある顔をしていた。
「そりゃ是非お話を聞きたいものだね」
「まぁまぁ、話を急ぐのもなんですし、どーでもいい話から始めましょう」
「どうでもいい話?」
「先輩のお時間が許すなら、ですけど」
「それは構わないよ。……それで、何から話してくれるのかな?」
アン先輩はいつもの作り笑顔のまま、背もたれに身体を預けた。
その様子はこちらの出方を窺うようで、もしくはこちらの手の内を全て見透かしたようで、やはりアン先輩は一筋縄では行かないような印象を受ける。
だが、ここまで来たら俺のやることは一つだ。
「今年、コロポックルには何人の一年生が所属しましたか?」
「一年生かい? うーん、私が全員把握しているわけではないけれど、やはり一年生となると数は少ないね。相手の能力も素性も良くわからないしね」
「そうでしょうね。でも、突出した能力を持った一年生は、幾らか確保しているでしょう。例えば、椎堂兵太郎。アイツはどうやら、アン先輩が直々にスカウトしたとか」
「へぇ……」
俺の言葉に、アン先輩はため息を漏らすように声を出した。
どうやら感心してくれたらしい。
椎堂の名前を出した所でこの反応、やはりアン先輩は今回の事件の犯人まで知った上で全てを動かしていたのだろう。
「確かに、椎堂くんは私が誘ったよ。あの能力は他に得がたいものであったし、情報部としてはかなり有意義なモノだった。放っておく手はないよ」
「でしょうね。俺でも多分、そうします。だが、あの男は性格が破綻しており、手に負えないことまでやりかねない。先輩はヤツの能力を優先しすぎて、性格の事を鑑みなさ過ぎた。問題はそこにある」
ここまで言えば、アン先輩も流石に諦めたような笑みを作っていた。
俺の言いたい事、たどり着いた犯人の事はある程度察しただろう。
重要なのは二つ。
一つは椎堂は今回の事件の犯人であり、この男をコロポックルに誘ったのはアン先輩だと言う事。
そしてもう一つは、以前確認したとおり、コロポックルの内部にある情報部と武力部の力関係は、非常に微妙な所でバランスが保たれている事。
「もし、仮に、椎堂がアン先輩の手綱を放れ、自分勝手に行動したのだとしたら。そして、それがコロポックルの敷いたルールを逸脱するようなものだったとしたら。これはヤツをスカウトしたアン先輩にも責任の一端が生じる。武力部はそこを突いて、情報部の権力にダメージを与えるように動いてくるでしょう」
アン先輩は情報部の幹部である。
その幹部であるアン先輩の失態は、情報部全体のダメージになりえる。それは微妙なバランスの上で保たれていた情報部と武力部の均衡を崩す程度のダメージである。
一度権力争いに負けてしまうと、元の立場に返り咲くのは難しくなる。出来れば現状を維持したいのが情報部としての心情だろう。
そのためにはどうするべきか。
それはダメージコントロールである。
武力部から追求されるであろう部分を、出来るだけ痛くないようにするわけだ。
現状、件の写真の事はコロポックル内部どころか、一般生徒まで知っている情報である。これを隠蔽するのは最早不可能だ。
いずれ、椎堂が犯人であると言う事は明るみに出るだろう。それは情報部の人間によるものかもしれないし、もしかしたら武力部の方からかもしれない。
そんな時に、苦しい言い訳ではあるが『椎堂兵太郎がそんな人間だとは知らなかった』と言い張り、ヤツを尻尾切りにする。情報部の責任を軽減し、椎堂本人に責任の大半を背負わせて放り出す事で情報部のダメージを最小限にするわけだ。
そのための一環として、情報部は今回の事件を全力で捜査したわけである。
情報部自身が自分たちの痛い部分を探る事で、『本当は知らなかった』と言う嘘に真実味を与えようと言う狡い魂胆である。
そして俺は、この狡い魂胆に全力で乗っかろうとしているのだ。
「アン先輩、俺は情報部の人間として、情報部の利益を優先したい」
「……で、何が望みなんだい?」
今度は本当にため息をつき、アン先輩が俺に尋ねた。
回りくどい話はもう終わりという事だろう。
俺は椎堂が犯人であった事を黙っておく。その間も情報部は全力で犯人探しを行う。そうすることで内外に『情報部は犯人について全く知らない』とアピールするわけだ。
時間を掛けすぎるのは考え物だろうが、そこは情報部も馬鹿ではない。一番効果的なタイミングを見計らって犯人を見つけ出す事にするだろう。
だが、今では早すぎるのだ。
俺が偶然にも椎堂が犯人である、と行き着いてしまったこのタイミングでは、効果的とは言いがたい。故に、俺はそれを黙っておく事を貸しにするわけだ。
その対価として、何を得ようとしているのか、とアン先輩は尋ねてきたのである。
「俺が欲しいのは、情報です」
「情報部に情報を要求するのは、至極真っ当だね。で、何の話が聞きたいんだい?」
「俺が聞きたいのは、番長、番田長助と一年生女子、蓮野鼎の関係です」
「……その二人の関係?」
突拍子もなく飛び出した二人の名前に、アン先輩は少し面を食らったようだった。
いつも作り笑いのクセに、珍しい。
「俺が聞いた話によると、蓮野は番長の女だ、と。それが事実か否かを伺いたい」
「それは誰から聞いたんだい?」
「番長本人から」
「……なるほど」
何度か頷いた後、アン先輩はさりげなく立ち上がり、図書室の出入り口まで歩いていって、ドアを開いた。
「……何してるんですか?」
「いや、人の気配があったような気がしたのでね。気のせいだったようだけど」
確かに、廊下には誰もいなかった。
改めて席に座りなおしたアン先輩は、いつも通り作り笑いを貼り付けながら俺を見据えた。
「その話に関してなら、まず確実な情報を渡せるよ。私だけでなく、ちょっと事情通ならよく知っていることだし、武力部ならほぼ全員が知っていることだからね」
「武力部が全員? 意外ですね。情報収集なんかしなさそうな連中じゃないですか。何か理由でもあるんですか?」
「番長自ら、全員に教えているからさ。番長も番長なりに色々考えているって事だろうね。まぁ、それは余談だよね。とりあえず、君の疑問に答えておこう。番田長助と蓮野鼎の関係、それは――」
****
図書室から昇降口に向かうまで、俺は何度も頷いていた。
なるほど、なるほど、得心がいった。
あの言葉の意味、そしてヤツの態度。
色々わかれば、それは納得である。
心に渦巻いていた心配や不安、疑問などの一つが解決するだけで、これほど心が軽くなるとは思わなかったな。いや、それだけ解決した案件が、俺にとって重要なモノだったという事か。
足取りも軽く、晴れやかな気持ちのまま、俺は自分の下駄箱を覗き込み……
そして絶句する。
「こ、これは……」
俺の外靴の上に、白い紙切れが一つ。
下駄箱の中に紙切れ……いやさ、手紙と断言しようか。それがあるというと、普通はラブレターか何かを疑うのが普通だろう。
だが、吹上高校では違う。
下駄箱の中に入っている手紙、それは、
「おやおやぁ」
俺が手紙を前にどうする事も出来ずにいると、どこからともなく声が聞こえた。
声のした方、三年生側の下駄箱が並ぶ方向を見ると、男子がいた。
面識はない。だが、彼はそこそこの有名人だ。
「見ちゃったぞぉ。それは招待状だなぁ?」
「上山先輩……」
「おや、俺の事をご存知? じゃあ他のヤツらも?」
上山先輩が視線を向けた方向、そちらにも男子が二人。
その二人もそこそこの有名人である。
「有岡先輩に、東海先輩……」
「あっはっは、全員の名前もわかってるかぁ。流石は情報部の人間」
上山先輩は楽しそうに笑いながら、俺の肩を掴む。
そして俺の下駄箱に入っていた紙切れを、俺の目の前に差し出した。
「ほら、これの中、読んでみようよ。俺たちが立ち会ってやるからさ」
「い、いや、俺は今日、用事があるんで早く帰らないと」
「ははっ、良い度胸だな。俺たちを前にして、そんな冗談をはくとは」
握られた肩に痛みが走る。この人の握力、幾つあるんだ……ッ!
痛みに耐えながら、俺は渋々とその紙切れを受け取り、そして中を開いた。
最初に躍る文字は『果たし状』と言う物々しい言葉であった。
そう、吹上高校において、下駄箱に入っている紙切れと言えば、大概がこれである。
「おぉ! 果たし状じゃないか! しかもお相手は……かーっ! こりゃまた珍しい! 我らが番長とは、大一番になるねぇ!」
わざとらしく、上山先輩が大声を上げた。
果たし状の差出人は紛れもなく、吹上高校を仕切る番町、番田長助であった。
俺は、あの番長からタイマンを挑まれたわけだ。
それを認識した途端、俺の心臓が痛いほど跳ねる。
顔が熱くなり、逆に足や手から血の気が失せたように感じる。
「なぁ、これは逃げられないよなぁ?」
すぐ近いところで上山先輩の声が聞こえたはずだが、その声もどこか遠くから響いてくるようであった。
「俺たちはお前がこの果たし状を手に入れた事を、しっかりと見届けた。これで逃げるようなら、お前はコロポックル武力部の名の下に、腰抜けの烙印を押されて、これからずっと蔑まれる事になる。お前も、そんな人生は嫌だよな?」
そう、逃げられない。逃げたならば、待っているのはイジメにも匹敵する過酷な学校生活である。
だが、あの番長を相手にケンカで勝てるわけもない。
行くも地獄、戻るも地獄、とはこの事であった。
「じゃあな、タイマンの日、楽しみに待ってるぜぇ」
俺が果たし状を受け取った事を確認した上山先輩と他二名は笑いながら昇降口を出て行った。
俺はというと、紙切れを手にしたまま、しばらく動く事が出来なかった。
『蓮野鼎は俺の女だ。これ以上近付くならば、お前を半殺しにする』
あの言葉の意味を、目の当たりにしたのだ。
まさか本当に、ガチで半殺しにくるとは夢にも思わなかった。
いっそ夢であれ、とすら思った。
吹上高校コロポックル武力部が主催する興行、タイマンというモノがある。
それは言葉の通り、一対一の真剣勝負。ステゴロで行う決闘であった。
校舎裏の一角に陣取り、そこを戦場として行われるタイマンは、生徒の武力的な格付けを行っている。
武力部では、その強さこそが上下の指標であり、強い者がのし上がり、弱い者は淘汰されていく。そんな弱肉強食、修羅の巷。その強さをわかりやすくするためにランキングをつけようと始められたのが、このタイマンである。
一対一で戦う事で個人の強さを測り、数字を割り振る事で上下関係を明らかにする。タイマンは武力部の運営において、なくてはならないものであった。
先程現れた上山先輩はこのランキングに置いて十指に入る猛者。有岡先輩と東海先輩も上位二十位に入るランカーである。つまり、超強いのだ。あんな人たちに睨まれたら、一般生徒である俺などは蛇に睨まれたカエルどころのレベルではない萎縮具合になってしまうわけだ。仕方ないだろ、ケンカなんてあんまりした事ないんだ。
さて、そんなランキング付けの一方で、タイマンは見世物としても成り立っていた。
世間では格闘技と呼ばれるモノが興行として行われる事が頻繁にある。吹上高校においてはこのタイマンこそが格闘技に値する娯楽になっているのだ。
娯楽の基本は暴力とエロス。タイマンはその暴力部分の先鋭である。
学生のケンカではあるが、そこにルールらしいルールはない。レフェリーはいないし、時間制限もない。開始時に手ぶらであれば、それ以降は武器をどこからか仕入れることも可能で、どんなダーティな行為だって認められる。そんな状況でどちらかが参ったと言うまで続けられる純粋な暴力行為は、文化的に否定される一方、どこまでも魅力的なモノなのだ。
故に、タイマンを見物する生徒は後を立たず、今ではチケットが販売されるほどになっている。この金は武力部の運営にかなり貢献しているそうな。
武力部の構造上においても、金銭的な面においても、とても重要な役割を果たすのがタイマンと言う行事なわけだ。
タイマンは武力部に所属する人間のランキング付けのために定期的に行われるが、例外もまたある。そのトリガーが果たし状である。
誰かが『コイツとタイマンしたい』と望めば、武力部の認可の下、果たし状を送りつける事で成立し、然るべき時にタイマンが開催される。俺のような武力部に所属していない人間がタイマンに巻き込まれるのは、この例である。
しかし、普通は折り合いのつかなくなった一般生徒同士が、最終手段としてタイマンの場を借りるものだが、武力部の人間、それもトップが一般生徒相手に果たし状を叩きつけるとなると、あまり見ない例だろう。
しかも、俺が逃げ出さないように、上山先輩などによって俺が果たし状を受け取った事を確認させ、さらには逃げないように釘を刺す。これほどまでに周到に退路を断たれると、絶望するよりも感心してしまうね。
それほど俺を潰したいか、と。
一度、恐怖と言う感情がある一点を突きぬけ、ある種のブレイクスルーを起こしてしまうと、なんだか異常に落ち着いてしまうのだな、と実感した。
それをちゃんと理解が出来たのは、茫然自失のまま寮の部屋へと帰ってきて、着替えて、寮の食堂で夕食を食べ、また部屋に帰ってきて、しばらくボーっとした後だった。
そこでやっと意識を取り戻し、自分の状況を落ち着いて鑑みた所、『あっ、こりゃ無理だ、詰んでるわ』と思った瞬間、悟りの境地へと至ったわけである。
どうしようにも逃げられないのならば、これは腹を決めるべきだ、と。
番長を相手にタイマン張って、ケンカの経験も少ない俺が五体満足で帰ってこれるわけがないのだ。だとしたなら、ある程度の損害は致し方ない、と諦めるべきなのだ。
覚悟を決めたのなら、ざわついていた心の内が最早、さながら凪たるものである。入滅前の釈迦とまでは言わないが、一世紀も生きて大往生をしようという老人の心境とは恐らくこのようなものなのだろうな、と思う。
こう言う心境になれるのは、悩み事をほとんど解決出来たと言うのも大きいだろう。
コロポックルの仕事は犯人も見つけたし、ある程度は放置すると決めた。八乙女の事はアイツの気分次第。最難関であった番長と蓮野の関係についてもアン先輩と言う堅い情報源から聞いた話があり、これもほぼほぼ確定という事でいいだろう。
悩み三つが全て解決しているのだ。ならばもう、聖者のごとき心境で明日を迎える事が出来よう、と言う話だ。
……だが。
「そう言えば、八乙女のヤツ、変な事を言っていたな」
八乙女と言えばだ。
昼過ぎ頃に急に念話を飛ばしてきやがって。しかも内容がよくわからんと来たもんだ。
アイツは何を言いたかったのか、今でもわからん。
確か、目先のエサに目がくらんで大局が見えていないのではないか、とか言う内容だったか。……わからん。
俺が何を見失っていると言うのか。俺ほど大局を見て行動をしている人間など、今日日いないだろうというのに。
あー、もぅ、くそぅ。八乙女の所為で聖者のごとき心持ちが、一瞬でパーになってしまった。
やつの言葉の真意、確かめてみるか。
幸い、処刑が実行されるのはタイマンが行われる放課後だ。それまで間、かなりの時間がある。
目先ではない大局とやらを、見極めさせてもらおう。




