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月夜

作者: 古根 葵

 古めかしい板張りの縁側に座ってまぶたを閉じる。

 夜の香る心地のよい風が髪合間を通り抜け、その空気に半ば溶け込むように、かすかな振動を伴って祭囃子が鼓膜を揺らしている。そのまま重力に任せて柱にもたれると、右頬に触れる柱のひんやりとした感触の中に、なにか暖かな風合いのようなものを感じた。僅かに止めていた息を吐き、その冷たい感触に体を預けていると、次第に疲労感とか充実感が肢体に緩やかな並みとなって訪れて、私は体を柔らかく包むそれらに身をゆだねながら、変に肩の荷が下りたように感じていた。

 ――ぜんぶ……全部今日で終わったんだ……。

 盆地の行く末も、山神さまのご意向も片がついて、片桐浩一は首都に向けて旅立ち、かねてよりの神隠し騒ぎも曲りなりに落ち着いて、……。

 ……これで、心安らかに暮らせるんだ。茜と、葵と、三人で。

 涼やかな風が流れ込み、辺りの木々をゆるくざわめかせていく。しとやかに咲く庭の紫陽花の花をぼんやりと眺めながら、私は夜半の静寂に耳を傾ける。

 葵がこっちに迷い込んできて、それから最後の大祭りまでの一年間、本当にいろいろなことがあった。

 もしかしたらその変化は、私がこっちに来て間もない頃から、人知れず、ことによると私自身さえ気づかないところで起こり始めていたのかもしれない。薄く開いた視線をゆらゆらと煙を立ち上らせる蚊取り線香に向け、その仄赤く頼りない光に見入りながら、ぼんやりと思案する。

 葵がこっちに迷い込んできたとき、私はまるで、昔の自分を見ているような気持ちに囚われたのだ。

 それはいでたちや、人となりが似ているというわけではなく、……現し世に自分の居場所を見失ったすえに、こちらへたどり着いたその境遇ゆえ、もしかすると、知らず知らずのうちに愛着めいたものを押し付けてしまうくらいに、私はきっと動転していた。

 執心していなかった、といえば嘘になる。それは茜にも指摘された通り、その頃の私はきっと、私の分身に出会えた喜びで周りが見えていなかったのだと思う、現実から逃げ出したという罪悪感を紛らせたいがために、自分に対して、これは葵のためなのだという建前をいい聞かせ、葵をこちらへ引き留めてしまった。結局のところ、私はその独善的な志のもとで、葵の若い可能性を摘み取ってしまったのだ。私が自分にどういい訳しようと、いくら彼女本人がそれでよかったのだと答えるにしても、私はこれまで自分の一時の私欲を許すことができないでいた。

 なぜなら私は、葵に対して、自分の歩んだ孤独で永劫に等しい時間の牢獄へ、よりによってともに囚われようと唆したのだ……。

 長く伸びた色味のない灰が、受け皿のなかに静かに舞い落ちる。わずかに短くなった蚊取り線香は弱々しく光を放ちながらも、徐々に寿命へと向かいながら、たどたどしく時を刻んでいる。……時間が流れることをやめたこの常世でさえ。

 今日、この大祭りの日、私は私を責め苛んできた罪悪感に対して、ようやくまっとうな建前を突きつけることができるのだ。ようやく私はこの罪悪感から解放されて、なんの引け目も感じることなく三人で暮らすことができるのだ……。

 そしたら三人でまたお祭りに繰り出そう。鼻の奥のあたりで涙を食い止めていた堰がとうとう決壊する。葵の着物を見立ててあげて、茜にたくさん美味しいものを食べさせてあげるのだ。一緒にまた花火を見上げるのもいいなあ……。三人だけで秋祭りもして、お正月には道祖神さまや誠一くん、橡さんたちも呼んで、みんなで一緒に語り明かしたり、……。

 満ちたりた日々を夢想して、私はこのときになってようやく、自分を責め苛んできたものはもうとうに私のなかから消えていて、私を縛り苦しめてきたのは他ならぬ自分自身だったのだと気が付いた。

 涼やかな夜風はいつしか私を安らかな眠りに誘っていた。頬を温かいものが伝い、蚊取り線香のともしびも消えて、しかし三人で暮らしている光景が、眠りに落ちる間際まで私の脳裏から離れることはなかった。



 明かりの点っていた行灯の始末をして、寝室を後にする。

 静かな暗闇に満ちる廊下を摺り足で歩いていく。開け放たれた障子窓の欄干に手を掛けて、忍びこむ夜気に頬をさらしていると、いつしか変に満ち足りたような気持ちが胸を満たしていた。

 この家で、藤村さんと茜と暮らし始めてから、おおよそ一年が経つ。

 なんだか感慨深いような、懐かしいような、時間の流れがこんなに早かったのだと初めて知って、不思議に感じた。藤村さんが教えてくれたおかげで着物での立ち振る舞いもおおかた身についたし、家事や日本家屋暮らしの所作もひととおりできるようになった。学校ではいじめられて、家ではまるで空気のように扱われていた私は、いまではその頃の私は想像もしなかったような暖かな生活に身を置いている。三人で一緒に花札をしたり、庭のお手入れをしたり、茜と着物を見繕ってもらってお祭りに出掛けたり。

 もちろん立ち振る舞いを教えるときの藤村さんは厳しいけれど、やっぱりそのぶんできたときの藤村さんは優しくて、そんな日々があったから、いまの私がいるのだと思う。

 結局私が生きる意味を見いだせたのは、盆地での生活でもなく、現し世でもなく、よりによって常世だったわけなのだけれど、しかしもし願わくはこれからも、ずっと三人での暮らしが続いていたらいいなあと密かに思っていた。

 廊下からせり出した階段を下っていくと、ちょうど踊り場のあたりで茜と鉢合せをした。この愛らしい同居人は、出会い方こそ険悪だったものの、いまでは私の一等大好きな親友だった。

「咲ったら、縁側で寝ちゃってるよぅ……。せっかく誠一さんから線香花火たくさんもらってきたのに……」

「きっと疲れが出ちゃったのかなぁ。藤村さん、ここ何か月かずっと無理してたから……」

 私がそう述べると、茜は不満げに小さく唇を突き出したものの、「そうだよね……」とため息を付きつつ肩を落とした。そんな茜を見て、私はつくろうように口を開く。

「どの道ずっとお祭りは続くんだし、藤村さんには今日はもう休んでもらって、……花火はまた明日にするのがいいのかもね」

 いいながら茜の柔らかい髪を手櫛ですくと、茜はこくりと頷いて「うん、そうだね……」と告げ、それから踵を返してとたとたと階段を駆け下りて行った。名前の通り茜色の着物の袖と、ふわふわと揺れる尻尾を追いかけて、私も茜に続いて階段を下る。

 私が階下の床板を踏むと、「でも、咲が起きたら花火に付き合ってもらうからねっ」といいながら茜は塗炭のバケツを提げて戻ってきた。バケツには水が張ってあり、両手が塞がっている茜のために、私は襖を開いて先を促す。後から座敷に入ると、茜は縁側から中庭に出てバケツを地面に置き、私はそれを視界に納めながら後ろ手に襖を閉める。

 座敷の行灯の始末を済ませると、私は座布団の上に腰を下ろした。薄暗くなった座敷。テーブルの上の将棋盤を手元に引き寄せると、昨日の午後に藤村さんと指した局面が私の敗北で終わってそのまま残っていた。

 時折木々の揺れるほかには音一つない静寂が座敷を包んでいる。中庭の頭上、開け放たれた障子の向こうの夜空には真円に近い月が上り、盤上に冷たく銀色の月明かりを落としていた。静まり返った夏の夜の空気に耳を傾けながら、いくつかの駒を動かして、こうすればもしかしたら勝てたかもと思案していると、藤村さんの様子を見てきたらしい茜が私の正面に座ってテーブルの表面に頬をつけた。

「これで、よかったんだよね」

 慎ましく光をこぼす月を見つめながら、茜がぽつりとつぶやいた。

「……ん」

 私も茜に倣って、ひんやりとするテーブルに頬をつける。茜が私の頭に手を伸ばし、それから髪のなかに指を差し入れてかき回してくる。

「咲、……怒らない、よね」

 茜が控えめにいった。茜は茜で、今度の顛末について、彼女なりにいろいろ抱え込んできたのだろう。もしかすると私や藤村さんの知らないところで、事態をなんとかしようと尽力していたのかもしれない。しかし、私がいうのもなんだけれど、今度のことは茜ひとりでなんとかなるとは思えなかった。一介の稲荷神がどうにかできることならば、とうにかの道祖神さまがどうにかしていたに決まっているのだ。

「……茜のせいじゃないよ」

 私は頭を持ち上げて視線を茜の方に向ける。茜は少しだけ安心したようで、薄く微笑んで、こくりと頷くと、

「ありがと、葵。葵がいてくれて、本当によかった。私ひとりじゃ、きっと押しつぶされてたもの……」

 それだけいって、にわかに立ち上がり、「咲を寝室まで運ぼうっ」と声を上げた。




うちの子かわいい。

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