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第8話 カウント・ダウン

 そしてお盆が過ぎて短い夏休みが終わりに近づいた頃、俺は沢宮さんとの別れが近づいたのを知った。

 早朝の境内でいつものように梢を脇に置いてラテン語を教わっていると、沢宮さんは突然、俺に尋ねた。

「夏休みいつまで?」

「8月25日まで」

 ふうん、早いんだ、と沢宮さんは少し意外そうに言った。ここ雪が深いので、と梢が口を挟むと、ああ、と納得した。

 梢が重ねて聞いた。

「どうしてですか?」

「それまでなら境君を教えてあげられるから」

 そうですか、と面白くもなさそうに、梢は物理の公式集をめくりはじめた。

 だが、それは俺にとっては大問題だった。俺は慌てて聞いた。

「それまでって?」

 沢宮さんは曖昧に笑った。

「留学するんだ。もうタイムリミットぎりぎり。本当は準備もいろいろあるんだけど」

 俺は寂しいのをごまかしたくて、つい軽口を叩いてしまった。

「あ、俺のために?」

 沢宮さんが俺の頭を後ろから軽く小突いた。

 俺は頭を押さえて、叩かれた勢いで滑り落ちそうになった境内の縁側をあとじさった。沢宮さんは鳥居の向こうの空を見つめながら言った。

「君たちといるのが楽しいの」

 ……君「たち」かあ……。

 そろそろ秋の訪れを告げはじめた朝の風が境内の銀杏の枝を揺らした。緑の葉が静かに鳴った。

 だが、その音は神社の横を走りすぎていったダンプカーにかき消されてしまった。


 そして8月25日がやってきた。

「じゃあ、ラテン語講座はこれでおしまい。よく頑張ったね」

 連なる山々の上に夏休みの終わりを告げる太陽が昇った頃、沢宮さんは僕だけのための夏期講習の終わりを告げた。

 静かに吹いてくる朝の風は、今までのように眩しくはない。

 揺れる黒髪をかき上げるしなやかな指をじっと見つめていると、梢がいきなり後頭部をどやしつけた。

「痛えな」

 背の低い梢を見下ろすと、高く伸ばした掌が俺の額をぺしっと叩いた。

「礼ぐらい言え」

 挑戦的に見上げる目つきは、不機嫌そうだった。

 向き直って頭を下げると、沢宮さんは曖昧に笑った。

「いいのいいの、そんなにかしこまんなくても」

 行き場を失った両手を胸の前で広げて、困惑する。

 俺も気の利いた言葉をひとつでも残したいところだったが、それは無理だった。


 その日、最後のレクチャーを終えた俺が辞書を神社に置き忘れたのは、沢宮さんとの別れに動揺していたからだろう。

 俺は昼頃気づいて神社に走ったが、そこにはもう辞書はなかった。

 まずい。

 俺は辞書にある仕掛けをしておいたのだが、それは梢のいるところでは返せなかった。

 両親からのお礼にかこつけて梢の家まで沢宮さんを尋ねてお礼を言い、帰り際にこっそり渡すつもりだったのだ。

 いくらなんでも、辞書に挟んだあのメッセージに気付いたら、人に見せるようなことはないだろう。

 TE AMO……。

 俺はあの時答え損なった言葉をラテン語のままで、辞書の「amo」の載ったページに挟んでおいたのである。

 俺は神社から、慌てて梢に携帯をかけてみた。

 数コール待たされた後、ようやく不機嫌そうな声が答えた。

「何よ。宿題なら自分でやんなさいよ」

 その悪態も、ダンプが通る音で、よく聞こえない。俺はうるさいのと苛立たしいので、携帯に向かってがなりたてた。

「言われなくたってやってる!」

 その言葉に嘘はない。沢宮さんのラテン語講習が始まってから俺はがぜんヤル気になり、かなり計画的に宿題を片付けていた。

 だが、今はそんなこと問題じゃない。

「辞書見なかったか? ラテン語の」

 梢は面倒くさそうな声で、しかし間髪入れずに答えた。

「持って帰ったんじゃないの?」

 これで沢宮さんか梢が持ち帰ったという線は消えた。

「沢宮さんは?」

 なぜかムッとした声が返ってくる。

「フィールドワークとか言って出て行ったけど、何で?」

 まだ、ここを離れてはいないということだ。辞書を探し出せば返せる。

 いちいち梢に説明することもないので、分かったそれじゃあ、と電話を切ろうとしたとき、ちょっと待って、と梢が止めた。

「幹也が見たかもしれない」

 いつもあの辺に遊びに行くから、と付け加えた。俺は礼も言わずに急いで電話を切った。

 幹也か……。

 だが、ぐるっと見渡した境内には子どもの姿など見当たらなかった。

 

 街道沿いに散々探しても子どもたちの姿は見つかなかった。

 その脇で実りを待つ稲田の上を、もう山から下りてきた赤トンボが飛んでいるばかりである。

 俺は夏の熱気を残したアスファルトの上を、立待橋まで歩いてみた。

 もしかすると、川遊びをしているかもしれない。

 橋の上から上流を眺めると、案の定、幹也は年下の子どもたちとじゃれあっていた。

 夏休みが早く終わるのは、小学校でも同じことである。

 それを惜しむかのように、子どもたちは岩から飛び降り、川底に潜っては水面に顔を出し、ムキになってはしゃいでいた。

 俺は、橋を渡り切ったところから下へと続く、草ぼうぼうの細い道を通って川原に下りた。

 丸い石に足をとられながら砂利の上を急ぐと、名前を呼ばれるのが照れくさいのだろう、俺に気付いた幹也の方から走って寄ってきた。

「何か用?」

 その問いを聞き終わるか聞き終わらないうちに、俺は自分の要件を切り出していた。

「あれ、どこやったんだよ」

 あれって何、と首を傾げる幹也に、ラテン語の辞書がどーたらと説明しても分かるまいと俺は思った。

「お前今日、神社行ったろ」

「行った」

 それがどうした、という口調である。

 その小生意気さにいちいち腹を立てても仕方がない。

 このくらい、と俺は辞書の形を空中に手で描いて尋ねた。

「本なかったか」

 幹也はさらっと答えた。

「ああ、あれ」

「どこだよ!」

 たぶん、小学生には何に使う本か理解できまいし、俺が何に使うかを知られるのはもっとまずい。

 辞書のありかが分かるなら、手段を選んではいられなかった。

 それでも、つかみ掛かりそうになるのをぐっとこらえてなおも問い質すと、幹也はそっぽを向いた。 

「秘密基地さ」

 ヒット!

 おれは即座にツッコんだ。

「どこにあるんだよ」

 幹也は上流で遊んでいる子どもたちを振り返りながら言った。

「教えないよ。みんな、秘密にしてるんだ」

 お子様にはお子様の世界がある。

 それは、俺も神社の裏山で走り回ったクチだからよく分かっていた。

 ……ここで子どもと押し問答するのは時間のムダである。

 俺は、努めて丁重に、小学3年生のガキに向かって頼んだ。

「悪いけど、あれ、大事なものなんだ。すぐに持ってきてくれないかな」

 最大限の妥協だった。

 だが、幹也は真顔で断った。

「あれは、秘密の呪文書なんだ。勝手に持ち出しちゃいけないんだよ」

 そう答えたところで幹也は他の子どもたちに呼ばれて、もとの川遊びに戻っていった。

 わかった、邪魔したな、と俺はその場を後にする。だが、橋の上に戻る俺の腸は煮えくり返っていた。

……小学生の妄想ワールドに高校生を巻き込むんじゃねーよ!

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