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第7話 楽しい? ラテン語文法

 その日から、俺の将来には恐らく何の役にも立たない「ラテン語特訓」が始まった。

 俺の突拍子もない申し出に、沢宮さんが一瞬、絶句したのは無理もないことである。

 それは無謀なだけでなく、全く意味がない挑戦であった。

 傍らにいた梢が、鼻で笑った。

「英語もまともに読み書きできないのに地球上で話す人間のいない言葉習ってどうすんの」

 全然知らなかった。

 真剣な割には、随分といい加減なお願いをしたものである。

 俺は恥ずかしくなり、その場で前言を撤回しようとした。

 だが、もう遅かった。

 我に返った沢宮さんは、心の底から嬉しそうに「よし!」と叫ぶや、両の掌で俺の顔を挟んだ。

 左右から頬を押さえる柔らかい感触に、俺の思考は停止した。

 

 この事実は、両親には話していなかった。

 大槻家とは親同士も行き来があったから、沢宮さんへの余計な気遣いをされるのは煩わしかった。

 たぶん梢の両親は了解しているから、こっちにもいずれは知れることだろう。

 だが、それまでは俺だけの秘密にしておきたかったのである。

 だいたい、待ち合わせの時間には両親ともまだ寝ているから、起こしさえしなければ迷惑をかけることもない。

 俺は前日にジョギングと断った上で、朝5時には髻神社に向かって走っていった。

 朝霧のたちこめる境内には、ゆったりとしたシャツに清楚な長いスカート姿で佇む沢宮さんが待っていてくれた。

 タンクトップ姿の梢も、オマケのように拝殿の縁側に座っていた。

 白い脚をホットパンツからすらりと覗かせているが、あまり色気はない。

 俺はそんなこと放っておいて、沢宮さんに駆け寄った。

 梢は部外者なので、そこから離れたところで教えてもらえると勝手に思っていたのである。

 甘かった。

 早朝補習の場所となったのは、自習の準備をしてきた梢の隣だった。

 梢が「ざまあみろ」と言わんばかりの顔で横目の視線を送ってきたが、思いっきり知らん顔をしてやった。

 縁側に腰かけた沢宮さんは、俺のために特別に作ったノートを使って、単語の読み方から教えはじめた。

 きっと一晩かかったのだろうと覗きこんだノートはきれいに整理され、いくつかの単語がアルファベットで書いてあった。

「ローマ字で読んでみて。頭にJがつくのは『ヤ』行の音で。a・i・u・e・oがないのは、ク・ス・ツ・ヌ・フ・ム・ユ・ルでいいわ。でも、Vはウと発音するのよ」

 俺が小学校で習ったローマ字を思い出しながら発音すると、沢宮さんはアルファベットの間に「/」を入れ始めた。

「今度はアクセント。2つに切ったのは、前半分を高い音で読んでみて」

「高い音?」

 俺がイメージしたのは、音楽でいうソプラノとか裏声である。

 沢宮さんの向こうで、梢が面白くなさそうに手を上下させながら言った。

「橋じゃなくて箸」

 梢は、「箸」と言いながら「ハ」のところで手を上げ、「シ」のところで下ろしてみせた。

 何となく分かった。

 ノートには、「Ser/vo」と書いてあった。俺は前半分を高くして「セルウォー」と発音してみた。

「そう! 『保存する』って意味。じゃあ」

 次の単語は、「mo/ne/o」と3つの部分に区切られた。

「これは、最初の音だけ高く読むの」

 俺は、梢が手を上げ下げするのを見ながら「モネオー」と発音した。沢宮さんは、「忠告する」という意味だと教えてくれた。

「何が違うか分かる?」

 一瞬だけ言葉に詰まって、つい梢を見た。 

 知らん顔をして参考書に視線を落としている横顔は、「自分で考えろ」と毒づいているかのようだった。

 沢宮さんに目を遣ったが、眼鏡の奥のまなざしは、結構真剣である。

 いい加減な返答はできない。

 目を固く閉じては開き、しばらく二つの単語を見比べた俺は、ようやく単純な答えに気づいた。

「2つに切ったのと、3つに切ったの」

 沢宮さんは、「よろしい」と言いながら、メガネを人差し指でクールについと持ち上げて見せた。

「アクセントを置くのは、どんなに長い単語でも、後ろから数えて3つ目までが限度なの」

 最初の日はそんな具合に終わった。何だか簡単そうだったので、俺は安心した。この分でいくと、思いのほか長続きするかもしれないと思った。


 だが、それは甘かった。

 次の日から、覚えることが死ぬほど増えたのである。俺の頭の働きは限界に来ていた。

 沢宮さんは、「ラテン語は完全に型にはめられてるから、パターンさえ覚えてしまえばいい」と言ったが、そのパターンが多すぎる。

 だが自分でやると言った手前、後には引けなかった。

 英語にしとけばよかったなとつくづく思った。

 この時点で、俺の両親に事情は知れていた。

 オフクロはさっそく手土産持って大槻家に出向き、「うちのバカ息子をよろしくお願いします」と沢宮さんに深々と頭を下げて大いに俺に恥をかかせてくれた。

 そんなわけで、俺が朝早くからジョギングがてら、神社で梢と一緒に沢宮さんから英語を教わっていることになっている。

 だが、そんなことは恥ずかしくて、もう沢宮さんには言い出せなかった。それに、言い出したことをすぐに引っ込める根性なしだとは思われたくなかったのである。

 沢宮さんのほうから、「じゃあ、この辺で」と言い出してくれればいいのだが、彼女はその気になったら一直線の人だった。思い出してみれば、最初に会った日も、大槻家の夕食を手伝うと言って聞かなかったのである。さらに、普通だったら電話などかけてこない時間に、梢から俺にモーニングコールをかけさせたではないか。

 今や沢宮さんは、俺にラテン語をどう教えようかという工夫に夢中だった。

 長い付き合いなのだから、梢だって俺の頭の限界ぐらい知っているはずなのだが、「以外に粘るじゃない」といった様子で、俺が困るのをにやにや笑ってみているだけである。

 沢宮さんに一言耳打ちして、俺を助けてやろうという心遣いなどは微塵も見られない。

 俺は覚悟を決めた。沢宮さんの熱意に応えるしかない。この機会を逃したら、本当に沢宮さんとは会えなくなってしまうのである。俺は必死で、地球上で誰ひとり話す者がなくなったという、何の役にも立たない言語の習得に取り組んだ。

 

「じゃあ、これは? Stellaステッラ micatミカト.」

「えーと……星が、またたく……」

 俺は沢宮さんがノートに書いてきたラテン語文を、貸してもらった辞書と特製の「変化早見表」をかわるがわる見比べながら、たどたどしく翻訳した。

 沢宮さんは、よろしい、と頷いた。眼鏡の向こうの目は真剣そのものである。

Stellamステッラム videmusウィデームス.」

「星を……見る」

「誰が?」

 沢宮さんが縁側に腰掛けたまま、ずいと身を乗り出してくる。視界から外せないほど伸びやかな身体と豊かな胸を前に、俺が思考停止状態の頭を必死で働かせようとしていると、沢宮さんの向こうで歴史の用語集なんか見ている梢が「何人称かな~」などとからかう。俺と沢宮さんのやりとりを聞いているうちに、断片的にではあるがラテン語文法を理解してしまったらしい。たいした余裕である。

 俺は辞書と早見表をめくりながら、ようやく答えにたどりつく。

「……私たち」

 沢宮さんは梢に振り向いて、ふふ、と笑った。

「そうね。ラテン語は何人称かで決まった変化をするから、その変化が分かれば、『私』とか『彼ら』なんかの主語は省略できるの」

 沢宮さんは、続く問題を出した。

「じゃあ、これ。Teテー amoアモー.」

 俺は辞書と早見表をめくった。

 まず、「amo」は一人称だから「私は」だ。その前に来ているのは……「あなたを」。だから……。

 俺がもたついていると、梢が口を挟んできた。

「あなたを愛しています」

 沢宮さんが笑いながら再び梢に向けて身体ごと振り向き、たしなめた。

「こら! 答を先に言わない!」

 沢宮さんの長い黒髪が背中からざあっとこぼれる。

 梢は俺を見ながら、嫌みったらしく謝った。

「すみませ~ん、答えがあんまり遅いもんで」

 面白くない、と思ったが、この時俺は、重大なミスを犯したのに気づいた。

 梢より先に気づいて、俺に身を乗り出している沢宮さんに正面から答えれば、さりげない告白ができたのだ。

 そう思うと、俺は梢の嫌味が余計に腹立たしくなった。

 睨み付けると、梢は知らん振りで再び用語集をめくり始めた。

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