第5話 許しがたいエロガキの妨害
追試の結果は合格だった。
沢宮さんと梢による夜明けの追い込み補習が効を奏したのだろう。
さらに俺は、英語の教科担当に頼み込んで、昼前まで時間をもらうことができた。
その時間を使って必死で取り組んだのは、沢宮さんノートの暗記である。
これで受からなかったら、俺は本当に恩も義理も知らないただのバカに成り下がっていた。
もっとも、試験開始の時間を遅らせることができたのは、なぜか俺の隣で一緒に頭を下げた梢のおかげでもあるが。
女子剣道の県下ベスト8を誇る優等生への信用が、俺の人生を左右したわけである。
その上、梢は試験直前まで俺の傍らから離れることなく口を挟み続けたのだった。
こうして、あがけばあがくほどハマっていくアリジゴクのような連日の追試は終わった。
俺の追試なのに「当然の結果だ」と勝ち誇る梢を見ていると、素直には喜べなかったが。
何にせよ、予定より1週間ばかり遅かったが、高校生活最後の夏休みがようやくやってきたのである。
バスを降りたその日の午後には、俺は解放感を満喫しながら、再び梢と立待橋を渡っていた。
ただし、これまでとは立場が逆である。
梢に連れて行かれるのではなく、自分から梢についていったのだ。
夏の太陽が、頭から照りつける。
その光を浴びながら、梢は立待橋の向こうへと歩いていく。
振り向きもしないで、いささか慌て気味に俺の申し出を断る。
「わざわざいいよ、今更そんな他人行儀な」
俺はきっぱりと答えた。
「いや、けじめだからな」
1週間近く、夜遅くまで世話になったのである。仕事に出ている父親はともかく、母親に礼を言うのは当然のことだと俺は思っていた。
「子どもの頃はよく夕食食べて行ったでしょ」
「昔の話だろ」
冷たい川風が吹き上がり、梢の髪を乱していった。梢は面倒くさそうに、その髪を撫で付ける。
しばらく無言で歩いて、急に梢が口を開いた。
「沢宮さん……」
俺はぎくりとした。
白状すると、「けじめ」というのは半分、建前であった。
追試が終わってしまったら、梢の家にいく理由はなくなってしまう。すると、当然、沢宮さんの顔も見られなくなる。
俺の頭からは、どうしてもあのイメージがこびりついて離れなかった。
あの淵から上がってきた、青い月光の下に輝く女性の裸身……。
その姿と沢宮さんを結び付けてしまうことに、俺は何だか罪悪感を覚えていた。
それならば顔を合わせないで済むに越したことはないのだが、半分の建前の裏には、もう一度沢宮さんに会いたいという気持ちがあったのである。
梢にそれを見透かされたのではないか。そう思って、俺は縮み上がった。
だが、それは思い過ごしだった。
「あれ……」
梢は、橋に向かって流れてくる渓流を指差した。俺はその流れを目で遡るようにして、梢の示す先を見た。
子どもが、川遊びをしていた。
渓流はそこだけ浅瀬になっていって、小学校低学年くらいの子どもたちが、網を手に水飛沫を上げて走り回っていた。
子どもは5、6人いたが、その誰もが服をびしょぬれにしている。
その子どもたちと一緒に魚を追いかけているらしい若い女性がいた。
梢の言うとおり、沢宮さんだった。
白いパーカーをまとってはいるものの、子どもたちの弾いた水飛沫に濡れて、シャツも短パンも、びしょぬれだった。
生地が、身体にまとわりついている。
白状すると、俺は10mくらい離れたその姿に目を凝らしていた。
やましい気持ちなどは、ほとんどなかった。
ただ単に、見とれたのである。
透けて見えそうな胸が、まるで別の生き物であるかのように躍っていた。
腰から脚にかけての線が、川の流れそのものを思わせた。
ときどき石に足をとられてじたばたする、しなやかな腕がきれいだった。
長い黒髪が太陽の光を弾いて、きらめく。
梢は俺と同じように、しばらくその様子を見ていたが、やがて肘でつついてきた。
慌ててそっちを見たが、俺に向けた横顔に、別に非難がましい様子はない。
怯む必要はないのだった。
それほどいやらしいことを考えていたわけではないのだから。
髪を微かに揺らす川風が吹いてくる方に顔を向けた梢は眉を寄せ、目を細めて言った。
「あれ、うちの幹也だよね」
そう言われてみてはじめて、子供たちの中に、見慣れた顔があるのに気が付いた。
日に焼けた肌の、小柄な男の子が沢宮さんにじゃれつき、くっついて離れない。
シャツがまとわりついた細い腰に手を回し、濡れた背中に頬をぴったり当てている。
梢が苦笑した。
「あのエロガキ……」
梢の家についても、俺は長居をするつもりはなかった。玄関で母親にお礼を言って、すぐ帰ろうとすると、浴室のほうからシャワーの音が聞こえてきた。
戸がガラガラと開いて、短パン一丁の幹也が飛び出してきた。
「よう、克彦」
両親のいないところではタメ口である。この辺の裏表が激しいのは、梢と姉弟だなあと思わされる。
とととっと走ってきて、ちょいちょいと俺を指で差し招いた。
挑戦的に俺を見上げてはいるが、顔だちは年相応に幼い。
だが、口元には意味ありげな笑いが貼りついていた。
「何だよ」
腰を屈めて顔を近づけてやると、耳元に口を寄せて囁いてきた。
「お姉ちゃん、けっこう胸あるぜ」
橋の上から見えた、沢宮さんの肢体が脳裏に蘇る。
俺は返答に詰まってむせ返った。
慌てて周囲を見渡したが、梢の姿はない。
もし聞かれたら、どんな罵詈雑言が飛んでくるか……。
気が強い上にすぐ手が出る性質だが、結構あれで純情なところがある。
間違っても聞かれないように、声を潜める。
「何で知ってんだお前」
へへへ、と幹也はいやらしく笑って言った。
「今、お風呂で体洗ってもらったらさ、巻いてたバスタオル外れちゃったんだ、ちょっとだけ」
沢宮さんと一緒に風呂?
バスタオルが外れて……その先に何を見たこのエロガキ!
「なんだとお!」
つい大きな声を出してしまったところで、何だ何だと梢がやってきた。
いや何でもないとごまかす俺と幹也を見比べて、呆れたように溜息をついた。
「何ムキになってんのよ」
俺はしどろもどろに答えた。
「むきになってやしないけどさ」
幹也が俺の腰辺りをバンと叩いた。
「ムリすんなって」
何を、と幹也に尋ねる梢に、再び何でもないとごまかしていると、浴室の戸が急に開いた。
タンクトップとキュロットに着替えた沢宮さんが、タオルを肩にかけて出てくる。
俺の脳裏に、再びあの月下の幻が浮かんだ。
「あ、境君? こんにちは……」
微笑みの中に見える、眼鏡の奥の眼がきれいだった。
「沢宮さん、あの、いいいいいいいつお帰りに……」
幹也とのひそひそ話といい、さっきの幻といい、やましいことだらけである。
自分でもみっともないと思えるうろたえっぷりだったが、沢宮さんは不審に思う様子もない。
「私たち、びしょぬれだったので勝手口から……」
その先を聞くと、ますますよからぬ想像をしてしまいそうだった。
「失礼します!」
俺は大槻家の玄関を飛び出して、転がるように駆け出した。