第3話 眠れない真夏の夜
沢宮さんは、研究室の教授の紹介で梢の父親を訪ねてきたらしかった。
生徒は夏休みでも、先生は休みではないらしい。
非常勤でも自前の研究や俺のような生徒の補充授業があるとかで、まだ帰っていなかった。
梢はといえば、風通しのいい川沿いの部屋に沢宮さんを通すと母親を呼びに行ったきり、なかなか戻ってこなかった。
勝手知ったる他人の家というやつで、来るのは何年かぶりでも、幼馴染にこう何日もシゴかれれば昔の感覚が戻ってきて、結構なれなれしくなるものである。
今日までの勉強部屋になっている居間は、沢宮さんが通された部屋とは座敷一つ挟んだ手前にある。
そこまで自分でやってきた俺は、梢がいないのをいいことに試験勉強を放り出し、座卓に頬杖ついて何となく窓辺の沢宮さんの姿を気にしていた。
夏の午後の日差しは、西に傾いているようだった。
渓流沿いの山の緑が、風に吹かれて波立つ。
その光をバックに、沢宮さんの影がくっきりと浮かび上がった。
俺の脳裏に、夢で見たあの光景が蘇る。
月の光を浴びて巨岩の上に腰かける、艶やかな肌に濡れた長い黒髪をまとわりつかせた女の裸身……。
「何さぼってんだ勉強してろって言ったろ!」
背中を一蹴りどやしつけながら悪態つく女をじろりと見上げると、頭の上には不機嫌そうな梢の顔があった。
「そんなこと言ってない」
家に帰るなり沢宮さんを川沿いの部屋に通し、冷たいお茶を出す一方で、俺には座れの一言もなく出て行ったのは梢である。
だが、その非を認める梢ではなかった。
「言ってなくても勉強しろ」
俺より頭がいいくせに、言うことは時々メチャクチャである。
自分で引き受けた強制補習を自習にして、梢は座敷の向こうの部屋へと去った。
英語の教科書の指定ページをやっつけながら、俺は何となく様子をうかがっていた。
梢は興味津々で沢宮さんに質問をぶつけてはふんふんとうなずいている。
だが、どんな研究をしているのかは、たとえ課題でなくても俺の頭では分からなかっただろう。
留学が近いので時間がなく、しばらく泊り込みでこの辺りを歩いて研究活動をするので宜しくお願いしますと、母親に丁寧に挨拶をした。
梢の母親はお構いなくと言ったのだが、夕方には、沢宮さんは食事を作る手伝いをすると言って聞かなかった。
そこで、夕食を呼ばれることになった俺は運良く、きれいなお姉さんの手料理をご馳走になることになったのである。
だが、その夕食は父親が帰っても、始まらなかった。梢の弟である、小学三年生の幹也が帰ってこなかったからである。
ようやく暗くなりかかった頃、やっと幹也が帰ってきた。
母親の叱責という関所を通過して現れた幹也は、沢宮さんに「こんばんは」と丁寧に挨拶して食卓についた。
夕食が始まって、梢は幹也に聞いた。
「どこ行ってたのよ」
幹也はクルミと青菜の白和えに箸を伸ばしながら答える。
「秘密基地」
秘密基地を持っている辺りが、小学生である。俺も悪友たちとやった覚えがある。場所は、俺の家の近所にある髻神社の拝殿だった。もっとも、事情を知らない大人たちの手で、誰かが捨てて行ったゴミとしてすぐに撤去されてしまったが……。
ふうん、と面白くもなさそうな顔をして、梢は話を切り上げた。
話を引き継いだのは沢宮さんである。
「どこにあるの?」
幹也が、日に焼けた顔で、にやりと笑った。
「内緒」
沢宮さんは声をひそめて、「ね、教えてよ」とせがんだ。幹也は自慢げに断る。
「秘密のバリアーが張ってあるんだ」
へえ、と驚いてみせた沢宮さんは、「どうやったら解けるの?」と興味深げに聞いた。幹也はふふん、と笑って「秘密の呪文」と答える。
沢宮さんはさらに、幹也の服に付いているゴミのようなものをむしりとる。
見れば、楕円形をした小さな黒い草の実だった。
沢宮さんが言った。
「あ、ヌスビトハギね」
「何ですか、それ?」
梢の問いに、沢宮さんは詳しく説明してくれた。
「マメ科の植物でね。動物の毛や人の服なんかにくっついて種をばらまくのよ」
「へえ」
幹也までもが感嘆の声を上げて、自分の服からいくつも草の実をむしりとった。
沢宮さんは、あ、ここにも、ここにも、といいながら幹也の服をつまむ。
幹也は抵抗しながらも、照れくさそうに笑っていた。
俺から見ても、幹也は年相応に幼稚なやんちゃ坊主である。梢はよく、「甘ったれ」だというが、俺だって多分、小学三年生の頃は甘ったれたやんちゃ坊主だったろう。
そんなやんちゃ坊主を、沢宮さんは上手にあしらっていた。なんだか、幹也がうらやましいと思いながら、俺は肉味噌で炒めた茄子を齧った。
沢宮さんが作った料理だった。美味しい、と思うと同時に、なんだか胸がどきっとするのを感じた。
だが、その晩のうちに、今度は俺が沢宮さんにあしらってもらうことになろうとは、夢にも思わなかった。
幹也が寝てしまった後も、例によって梢のシゴキは続いていた。これで5日目である。俺の気力も限界に達しつつあった丁度その時、Tシャツに短パン姿でやってきた風呂上りの沢宮さんが俺の背後から梢のノートを覗き込んだ。
首筋に感じる体温と鼻をくすぐる石鹸の匂いに、俺の思考はそのまま停止した。
俺の肩越しにノートを取り上げた沢宮さんの胸が俺の背中に当たる。体が緊張ですくんだ。
だが、沢宮さんは俺など相手にしていなかった。
「ねえ、梢さん、英語の動詞だけでも、パターンがあるのとないのがあるわね」
梢は、規則動詞と不規則動詞ですよね、と間髪いれずに答えた。俺には何のことかさっぱりわからない。英語は理屈抜きのクソ暗記でなんとかここまでやってきたのだ。
「このノートの中身をね、パターンがあるのとないのに分けたらどう?」
たった一言のアドバイスに、ああ、と梢は手を叩いた。沢宮さんを見上げる目が輝いていた。
「パターンを覚えるのと、丸暗記するのに分けるんですね」
そう、と言って返されたノートを、梢は立ち上がって受け取った。ありがとうございます、と頭を下げて付け加える。
「すみません、こいつバカなんで」
余計なことを、と思ったところで、沢宮さんがまた、くすっと笑った。
「仲がいいのね」
そんなんじゃありません、と梢は顔の前で手を振って否定した。
そう、と答えた沢宮さんは、そのまま居間から出て行こうとして振り向いた。
「だって、もう11時よ。じゃあ、おやすみなさい」
俺も慌てた。そろそろ家から電話がかかってくる頃だ。
立ち上がって、ノート貸して、と頼もうとしたら、梢は「ちょっと待て」とノートを抱え込むようにして、色鉛筆で何やら印をつけ始めた。
凄まじい勢いで書き込みを終えた梢は、俺の目の前でノートを開いた。
「いいか? 時間がないから手短に言う。赤鉛筆の印つけた所は文法だけ覚えろ。青鉛筆の印つけた所は丸暗記。わかったな!」
俺は分かったような分からないような気持ちで、うん、とだけ頷き、玄関へ出て靴を履いた。
その晩、俺は色々な意味で眠れなかった。
今度こそ、何とかなるかもしれない。俺は追試地獄の脱出を賭けて、徹夜してでも勉強するつもりでいた。
とはいえ、俺の集中力がそう長続きするわけがない。
夜中の1時を過ぎる頃から、俺の頭の中に、あの夜に見た、月下に輝く青白い身体の幻が浮かんだ。長い黒髪のまとわりついたその肢体が、沢宮さんの姿に重なった。
湯上りの熱気を残した腕の感触が、背中に触れた胸の柔らかさが甦る。
俺は悩ましさに眠れず、かといって試験勉強も手につかなかった。
頭を冷やしに外へ出てみると、ただ、天の川だけが明るかった。