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第2話 あの女(ひと)がやってきた

 そして再び梢のシゴキは夜遅くにまで及んだ。

 俺は何年かぶりに、子どもの頃のように梢の家族と食卓を囲んで夕食を取った。

 鮎の塩焼きが、俺を歓迎してくれた。

 意外にも、梢が作ったキュウリなますの酢加減は塩梅が絶妙だった。

 更には、俺はしまいに風呂まで浴びさせてもらったのである。

 おぼろげながら、小さい頃には一緒に入ったような記憶もある風呂に……。

 その後に自習を命じた梢は、やがて風呂上がりの薄いピンクの寝間着姿で戻ってきた。

 きわどい格好だったわけでもないのに、つい目のやり場に困った。

 昔のことを考えると、さすがに正面から見られなかったからである。

 いろいろあって俺は流石に疲れ果て、再び川沿いを帰ろうという気は起こらなかった。

 大人しく月明かりの街道を歩いて帰ると、両側の稲田からは蛙がしんしんと鳴く声が聞こえていた。


 だが、その努力空しく、俺は次の日の追試でも合格点を取れなかった。

 わざわざ登校して直前まで前日の復習をさせた梢は、図書館での「受験勉強」の後、再び教室までやってきて、惨憺たる結果を確かめにきたものである。

 帰りにはバス停からの暑い道を共に歩きながら、梢は俺の不甲斐なさを口を極めて罵った。

「だいたいねえ、昨日と同じ問題で、何で合格ライン超えられないわけ? 昨日の問題復習したでしょうが。アンタ学習能力本当にある? サルでも学習するわよ、サルでも」

 耳元できんきん響く声に、俺も声を張り上げて精一杯の自己弁護を試みる。

「うるさいなあ、追試落ちるたびに合格ラインが10点ずつ上がってくんだから仕方ないだろ?」

 もちろん、それは決まり文句で一蹴された。

「それ言い訳。同じ問題出されたら100点取んなさいよ、100点!」

 しばらく罵詈雑言の応酬を続けると、身体だけでなく頭の中まで熱くなってきた。

 カンカン照りの太陽の下でムキになったせいだろう。

 気持ちがもう、言葉にはならなくなっていた。

 俺は黙り込んだ。

 おそらくは同じ理由からだろう、機関銃の如き悪態を連射していた梢もむっつりと黙り込んだ。

 二人して無言で歩いていると、背後から轟くエンジンとタイヤの音が次第に近づいてきた。

 この辺には珍しく、大きなトラックが町から走ってくる。中には、重機を積んだものもある。役場勤めのオヤジから、この辺に高速道路が通ると聞いたことがあるが、その基礎工事でもするのだろう。(といっても素通りするだけでインターチェンジができるわけでもなく、この辺りの田舎には何の恩恵もない……)

 時折、風が山から吹き降ろしてくるが、やっぱり熱い。口論で疲れた頭を余計にぼんやりとさせた。

 だがその頭は、ある一瞬ですっきりと冴え渡った。夏の太陽にちりちりと焼かれた頬を、冷たい風が撫でていったのである。

 顔を上げて、ひんやりした川風を正面から受けたとき、俺は渓流にかかる橋の上に佇むひとりの女性に目を奪われた。

 橋の下から吹き上げる川風で微かに揺れる長い黒髪に、俺の頭の中で、あるイメージが甦った。

 月光の下の、青白く輝く肢体……。

 その幻を打ち消すような澄んだ声が、俺たちを呼び止めた。

「ちょっと聞いていい?」

 夢から覚めたようにおろおろする俺の代わりに、梢が笑顔で「何でしょう?」と答えた。

 子どもの頃から変わらない、対・大人限定の営業スマイルである。

 女性は俺たちに歩み寄った。一歩ごとに黒髪が風になぶられながら右に左に揺れる。

 それに見とれている俺など全く無視して女性は梢に尋ねた。

「この橋、もしかしてタチマチバシって言うんじゃない?」

 梢は、はきはきと答えた。

「はい、そうです。立待橋です」

 女性はにっこりと笑った。夏の太陽のせいか、その笑顔が眩しかった。

「ありがとう。あ、私、学生なんだけど、今、この辺の言い伝えなんかを調べてるのよね、ええと」

 はあ、とだけ答える梢から目をそらし、女性は額に指を当ててちょっと考え込み、やがてまた口を開いた。

「あ、この辺に大槻さん、っていらっしゃらないかな」

 梢は訝しげに答えた。

「どなたですか?」

 ああ、と手を叩いて、その女性はごそごそとボストンバッグの中から定期入れを取り出して、俺たちに見せた。

 そこには学生証があり、「悠倫館大学大学院 文学研究科修士課程2回生 沢宮さわみやいつき」と書いてあった。

 学生証の顔写真と女性の顔をちらっと見比べた梢は、元の営業スマイルに戻ってぺこりとお辞儀をした。

「失礼しました。始めまして。今日いらっしゃると、父から聞いております。私、大槻春樹の娘の梢です。よろしくお願いします」

 俺は首をかしげて、梢に尋ねた。

「……誰?」

「アンタは関係ないの。……ああ、こっちの話で」

 俺の質問を一瞬で却下した梢は、対大人限定営業モードで話を続けた。

「父はまだ学校ですが、夕方には帰ると思います。母はおりますので、家でお待ちください」

「じゃあ、お邪魔させてもらうわね」

「はい、こちらこそ宜しくお願いいたします」

 そう言った梢は、女性が片手に持った風呂敷包みを見て、「それ持ちます」と申し出た。

「いえ、お構いなく」

 女性は丁寧に断った。

 大きな重箱のようなものが入った風呂敷包みだった。

「何が入ってるんですか?」

 梢が尋ねると、研究資料、とだけ答が返ってきた。


 この、現在稼働している「対大人営業モード梢スペシャル」は、一見おおらかに見える大槻家の躾がいかに厳しいかを物語っている。

 梢の父親は郷土史研究をしている元大学講師で、俺たちの通う公立高校とは別の私立高校に請われ、地歴公民の非常勤講師を務めている。

 俺の通う学校より偏差値は低いが、分かりやすく工夫された授業が生徒たちの人気を集めているらしい。その辺は地元の新聞で記事にもなっていて、俺もちらっと読んだことがある。

 俺が夜遅くまで梢にシゴかれても互いの家庭で全く問題にならないのは、ひとえにこの先生の学問と人徳のおかげなのである。

 というわけで、たいへん礼儀正しく躾けられた梢は、俺をこづき回すときとは全く別の顔で、6つも年の離れた大学院生と淀みなく話しながら自宅へと歩きだした。名前すら紹介されずに路傍の石の如く梢から黙殺された俺は、そのあとをひょこひょこついていくしかなかった。

「先生が、この橋について詳しい話をご存知だといいんだけど。町の図書館なんかでも調べたんだけど、大雑把な話しか載ってなくて」

「説明できますよ、私でも」

 さらっと答える梢に、俺は少し驚いた。

 え……? なんでそんなことに詳しいの、お前?

「父から結構聞かされてるので」

 付け加えた一言で、梢と俺の差を思い知らされる。普段の勉強と関係ないことを頭に入れる余裕のある梢と、追試でひいひい言っている俺。

 そんな俺の屈折した思いなど知るはずもない梢は、さっきの「立待橋」の話を語った。


 ……この辺りに住んでいたある男が、昼寝していた友人の顔に、蝶が2羽向かい合って止まったまま動かないでいるのを見ていた。やがて蝶が去った後、友人はそれらが噂話をしているのを夢で聞いたと言う。「橋の上に三日三晩立っていれば、4日目の夜明け前、最初に出会う男が長者になる方法を教えてくれる」と。

 そこで男は、友人に夢を売ってくれるよう頼み、その夜から橋の上で待ち続けた。

 果たして4日目の夜、町からやってきた行商人を捕まえて「長者になる方法を教えてくれ」という。

 驚いた行商人は、男から事情を聞いて笑い出す。

「夢の話など信じるものではない。自分も某という男の家に植わった柿の木の下に黄金の詰まった壺があるという夢を昨晩見たが、その男がどこの誰で、どこに住んでいるやら分かったものではない」と。

 男は大喜びで家に帰り、柿の木の下を掘り返してみると、聞いたとおりに山ほどの黄金があった。

 それからその橋は、「立待橋」と呼ばれるようになったという……。

 梢の説明を聞いて、「沢宮さん」というその女性は言った。

「すごいわね。そこまで説明できるなんて。ありがとう。よく分かったわ。岐阜県の高山市に伝わる、『味噌買い橋』系の話ね」

「へえ、そうなんですか」

 梢の口から出た驚きの言葉には、営業用のものではない、素直な響きがあった。

 沢宮さんもそれに気づいたのか、くすくすと笑いながら話を続けた。

「ヨーロッパにも同じような話があるの。ただし、男が無学なばかりに、もっと大きな富を関係ない人に横取りされるんだけどね」

 そこで梢がようやく俺に振り向いた。

「無学な男、ですか……」

「何で俺を見るんだよ」

「別に」

 梢と俺のやり取りには構わず、沢宮さんは話を続けた。

「男は黄金を手にした喜びのあまり、宝のツボを投げ捨てちゃうんだけど、その底には、他の宝のありかがラテン語で書いてあったのよ。で、それを通りすがりの学生が読んで横取りしちゃったわけ」

「何でラテン語限定なんですか?」

「学生の教養といえばラテン語だったの、昔のヨーロッパでは。ほら、パリに『カルティエ・ラタン』って町があるでしょ? あれは『学生の街』って意味」

 沢宮さんの話が終わる頃、俺たちは梢の家の前まで来ていた。

 梢が玄関の扉を開けて「どうぞ」と言うと、沢宮さんはボストンバッグを肩から提げたまま、風呂敷包みを邪魔そうに抱えて、中に入った。梢の母親が出迎えるハイテンションな声が聞こえた。

 梢は家の前に佇む俺を冷ややかに見つめて言った。

「どうぞ」

 俺は返事の代わりに言った。

「誰が無学な男だって?」

 初対面の人の前でここまでバカにされるいわれはない。だが、梢は溜息混じりに「気に障ったなら失礼」と返した。

 お邪魔します、と玄関に入った俺の背後で、梢がつぶやくのが聞こえた。

「何の役にも立たないヤツ」

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