第1話 夏の始まりの幻想
谷川を挟む急な斜面に茂る木の葉が、時々、微かな風に揺れてひそやかに音を立てる。
深夜の渓谷に、満月の光が差していた。
その底には、いくつもの大きな岩が水辺で傾いたり、横たわったりしている。
その無秩序にもたれあい、重なり合う姿は、降り注ぐ冷たい光に照らされて、淵に満々とたたえられた水の上では逆さまになって映っていた。
その岩の上に、長い黒髪の女が立っていた。
艶やかな肌の上に一糸まとわぬその身体は、豊かな曲線を描いて青白く輝いている。
しばらく月の光を浴びていたその女は、矢庭に岩を蹴り、黒髪をなびかせて深い淵の中へ飛び込んだ。
一瞬だけ水飛沫が上がったのち、再び川面に静寂が戻る。
やがて白い水の泡が幾つも咲き、川底から白い影が浮かび上がってきた。
濡れた髪を肌にまとわりつかせたその影は再び岩に登り、その場に腰掛けて月を眺めた……。
「何ぼけっとしてんの」
背中を急に叩かれて、うとうとしていた俺の夢は破れた。
ここはどこだろう?
少なくとも、さっきまで見えていた渓谷の水辺ではない。
そもそも、俺に話しかけているのは誰だ?
少なくとも、さっきの女ではないだろうけど。
「いや……」
きょろきょろする俺の頭上から、児童を叱りつける小学校の先生のような声が浴びせられる。
ような、というか、子どものころから始終こうだった。
褒められた記憶はなく、叱られたことは多すぎていちいち覚えていない。
「ドコ見てんのよ」
振り向けば、そこには窓から射し込む眩い光に、夏服のブラウスが眩しく輝いていた。
ここは教室。
俺は高校3年生。
だが、ここには目の前の女子ひとりしかいない。
なぜなら。
1学期の終業式が終わっても、高校生活最後となる俺の夏休みは、少しばかり始まるのが遅かった。
俺の通う高校は、前期と後期の2期制で、夏休み前の定期考査は6月末から7月初めまでの1回しかない。
つまり、他の連中と一緒に夏休みを迎えるチャンスも1回しかなかったのだ。
それなのに、俺は前期の中間考査で英語の赤点を取ってしまった。
終業式前の三者懇談では「境克彦 サカイカツヒコ 30点」と書かれた成績集計表を担任につきつけられ、隣に座ったオフクロは机の下で俺の足を思いっきり蹴っ飛ばしたものである。
2学期に入れば、再び三者懇談がある。正念場の三者懇談だ。俺は、どこを受験するか決めなければならないのである。そんなときに、赤点を残したままでは済まない。
そんなわけで、俺は追試に合格するまで、朝早くから学校に通わなくてはならなくなったのである。
終業式後の土日と「海の日」は追試対策で潰れ、俺は追試第1日目を迎えることとなった。
たった1人で教室に残されて答案に向かった50分間の孤独。
現在なんたら進行形だのカテイ法だの、わけの分からない専門用語を含んだ「あれを書け」「これをいくつ選べ」という質問に何とか答え切った俺は、担当の先生が職員室で採点を終えるのを待っていた。
終業式の午後から土日をまたいでの2日半は、苦しい戦いの連続だった。
自慢じゃないが、そもそも俺が自主的に勉強するわけがない。
俺の追試をかぎつけたお節介焼きが、3日連続の強制補習をさせたのである。
その名を、大槻梢という。
俺の幼馴染である。幼稚園の頃からの腐れ縁で、小学校から高校までずっと一緒に来た。
つらつら思い出してみると、何をやらせても梢よりもワンテンポ遅い俺は、いつも片手を掴まれて引きずりまわされていたような気がする。
自分の名誉のために言っておくが、俺がトロい訳ではない。梢が常に一歩先を歩いているのである。
(梢からすると『そんなの言い訳』らしいが……)
勉強もスポーツも、人一倍よく出来る。高校での成績は、常にトップ集団を走り、部活も剣道部で、個人戦では県のベスト8くらいにはいつも入賞している。
「何しに来たんだよ」
俺は追試の時間だけがぽつねんと書かれた黒板を真っ直ぐ向き直り、頬杖をついた。
終業式の日の大掃除で、ピカピカに磨き上げられた黒板は、近づけば自分の顔が見えるくらいである。
俺が赤点を取らなければ、2学期の始業式まで、無人の教室を鏡のように映し出していたはずだ。
今、そこにいるのは俺と梢の2人きりだ。
夏の日差しが降り注ぐ窓の外からは、運動系部活動の掛け声が聞こえてくる。
だが、梢は、学校に来る用事などないはずである。
今年の県大会は、他校の1年生からして強豪が多く、梢は最後の夏に華を飾ることができなかった。当然、部活も引退である。
だが、梢は俺の背中にいやみったらしい声を、小柄なくせに上から投げつけてきた。
「受験勉強。冷房の利いた図書館で」
梢は俺の机の前に回って屈みこんだ。至近距離で見つめられて、俺は思わず身体を引いた。
ボブカットの髪に、つぶらな瞳。
幼い顔だちは、普段話してても結構、怒ったり笑ったりがはっきりしている。
今は……不機嫌そうである。
「何すんだよ」
「英語のノート返して」
俺の目の前に、小さな白い手が差し出される。とても3年間、対外試合で強豪選手を竹刀一本で打ち負かしてきた手には見えない。
「もうちょっと貸しといてくれよ」
そう言いながら、俺は前の晩までのことを思い出していた。
終業式の半日が終わるや、梢は一足先に俺の家の玄関先で待ち伏せていた。
庭先で洗濯物を干すオフクロに余所行きの声で了解を取るや、自分の家に連行。
その日から「海の日」にかけて、日が暮れるまで俺を監視下に置いて座卓に縛り付け、次の朝一番に携帯電話で呼びつけるというサイクルを繰り返した。
サボリにサボってきた英語の力がたった3日間でどうこうなるわけがないのに、俺は小学校を出て以来、足を踏み入れることのなかった梢の家に通いつめなければならなかったのである。
因みに大槻家の両親も了解の上である。夕方には弟の幹也が帰ってきているが、こいつはどうでもいい。
強制補習の場となった家の居間で、俺は梢と差し向かいで苦手な英語と格闘しつづけたのである。小学生の頃は何の抵抗もなく遊びに通った家であるが、高校生ともなると実にやりにくかった。
なにぶん、相手は女の子である。
いかに幼児体形で胸がないとはいえ(いや、それだけに)、ノースリーブのシャツ一枚にハーフパンツ姿で、すぐ傍らにアグラをかかれては、目のやり場に困る。
結局、追試に合格できるレベルには到底追いつかなかった。弟が寝てしまい、時計が11時を回った頃、家族からも携帯に電話が入った。俺はとりあえず梢の授業ノートを借りて、徹夜してでも勉強するという約束の下に、梢から帰宅を許されたのだった。
その帰りのことである。
梢の家は、渓流の傍にある。そして、この渓流をはるかに遡っていったところに、俺の家がある。
3日間絞られて参っていたせいだろうか、俺は普通の道を通らず、川沿いに帰ることを思いついたのだった。
月は空のてっぺんにかかっていた。その月に照らされた渓谷が、俺の目には幻のように映った。
月明かりに輝く川面に引き寄せられるようにして、俺は川沿いに生い茂る木々に歩み寄っていった。その幹に掴まるようにして、俺は足元を気にしながら歩いた。
どれほど歩いたろうか。
川向こうの「上の淵」と呼ばれる辺りの岩の上に、青白い人影が見えた。その影は、一糸まとわぬ身体に流れるような黒髪をまとわりつかせ……。
「人の話聞きながら寝るなコラ」
俺の脳天に激痛が走った。梢が肘打ちを入れたのである。
「何だよいきなり」
痛いところを手で押さえて見上げると、背が低いくせに腕組みなんかして見下ろす梢の、冷ややかな眼差しがあった。
「今日もアタシんち来いよ」
命令口調で俺の目の前に突きつけられたのは、下手くそなアルファベットを書き連ねたさっきの答案だった。
B4の紙のほとんどは空白。
無数の斜線が引かれて、丸は10個あるかないかである。
点数は40点。これが今日の赤点ラインだった。
「何でオマエがそれを?」
俺は答案を梢の手から慌ててひったくり、教科書と梢のノートが入ったカバンの中にしまった。
「さっき先生がアタシに渡してった」
そういうなり溜息ひとつついて、梢は俺に背中を向けて教室を出て行こうとしたが、何か思いついたようにぴたりと立ち止まった。
教室の出入り口の前で振り向き、規定どおり膝下までの長さが守られているスカートの腰に、偉そうに手を当てる。
「逃げるなよ」
流石に俺もムカっときて言い返した。
「1教科得意なくらいでえらそーに」
「1教科?」
梢は薄い胸をそらし、冷ややかな眼差しでいやみったらしく尋ねた。
「何か一つでもアタシに勝てましたっけ?」
何一つとしてない。
だが、答えられないのも悔しいので、俺はちょっと考えて、ラテン語、と答えた。さっきの追試にあった言葉である。
それを聞いて、梢は高らかに笑った。
「ラテン語って何か知ってる?」
ほとんど人のいない校舎では何の役にも立たない授業開始のチャイムが、空しく響き渡った。