キンゾー、共産主義す
さて。
今でこそ博多駅前から住吉神社前を通り、ホテルニューオータニに抜ける道は「住吉通」といい、博多のメインストリートではある。
しかしこの幹線道路は新博多駅移設に伴い、強引に取り付けられた道路であったと記憶している人間はどれくらいいるだろう。
今の博多駅から、住吉通りを渡辺通り方向へ進む。全日空ホテルをすぎ、イトキンビルのあたりまで、ずっと長屋が蝟集盤居していた。住吉通に交差し、宮島からイトキンビル前、TXN前を通り、商工会議所へ向かう道路が、以前の国鉄・鹿児島本線だった。無論、列車は蒸気機関車。もうもうと石炭のツンとくる匂いを吐き散らしながら、走っていた。そして、線路の向こうは清川のあたりまで、一面の麦畑だった。
キンゾーの育った人参町、松田町、末広町も、ぎっしりと長屋が軒を連ねていた。
当時、キンゾーの通った小学校は、西日本一のマンモス小学校だったというのだから、その人の多さは想像していただけよう。オイサン、オバサン、子供、老人、有象無象に人だらけだったのである。
それに長屋には在日朝鮮人、オンリーさん、バタ屋さん(差別用語だが、こうしか書けない)なんかも結構いた。
ああ、オンリーさんの説明がいるな。
その頃、現在の福岡空港は板付基地といい、進駐軍(古いね)が駐留していた。
とりわけ春日原や白木原は、家族連れ米兵の官舎があり、アメちゃんの兵隊や家族がたくさんいた。
ただ、当然、独身者とか単身赴任者とかがいるわけで、となれば必然というか、摂理の流れというか…。簡単に言えば、オンリーさんとは米兵の現地妻、そう理解されたら話しが早い。
そんな環境の中だから、小学校は今で言えば国際色豊かというか、不思議な学校だった。
クラスにはアフリカ系混血のキダくん、アングロサクソン系混血のあぶちゃん、在日のブンくんやキンくんがいた。
無論、今にしてそう思うだけで、当時のワルガキボンクラ頭では、国際色もクソもない。みんなワルガキの一部にして全体だったのである。
アフリカ系アメリカ人混血のキダくんは、小学校の3年生くらいに転校していった。
その後、キンゾーが高校生のとき、ダウンタウンでバッタリ出会った。メチャメチャ背が高く、はるかに見上げるようだった。
「オッ、キダくんやない?」
「オー、キンゾーやない。久しぶりやね。なんしよんや」
そのあとなにかを話したと思うのだが、あまり記憶にない。ただ、この国での居心地の悪さが嫌でたまらなかったようだ。
そ、つまり肌の色に対する抜きがたい差別、それですわ。高校に行っていないこと、そのうちアメリカに行きたいことを喋っていたことだけは、覚えている。
アングロサクソン系アメリカ人混血のあぶちゃんの家には何度か遊びにいった。アメリカナイズされた家は、とんでもなく豊かに見え、羨ましかった。
コカコーラと初めて出会ったのも、あぶちゃんの家でだった。
「なん、これ?」
「コーラたい。サイダーのごたると(=のようなもの)。うまかぜ。飲んでんやい(=飲んでみな)」
「ショーユのごたあね」
初めて飲んだコカコーラは、線香臭かった。
「おいしゅうなか。三ツ矢サイダーの方がうまかばい」
「そうや?父ちゃんは、いっつも飲みよんなあばい。オレも好いとうぜ」
これがアメリカの味かいな、アメちゃんちゃ、仕方むなか(=どうしようもない)もんば飲むっちゃね、ふてぇがってぇどうかいな(=おやまあ、どうしたことだろう)…。
あぶちゃんもその後、転校していった。家族あげて、米国へ戻ったと聞いたのは、やはり高校の頃だったと思う。
在日のブンくんとは仲がよかった。
隣町ということもあり、遊びに行ったり来たりしていた。
在日の集落に入ると、独特の匂いがある。
ニンニクとマッカリの匂いだ。蒸れた足の匂いに似ている。あの発酵臭は、なにかしら人をして落ち着かさしめる。人間本来の体臭に近いのかもしれない。あるいは、オイラの何世代か前のご先祖様に半島のDNAが混じり、それが反映されているのかもしれない。
ブンくんの家では雑誌「少年」を買ってもらっていた。
キンゾーは最新号が出ると、読ませてもらいたくていつも行っていた。だってキンゾーの好きな「鉄人28号」が連載されているんだ。あの時代、少年誌を毎月買ってもらえるってな、なかなかないんだぜ。
あと、ハッチャンとこの少年マガジンな。
ん?少年マガジンはも少し上級生になってからだったかな?
ま、とにかく。
小学校二年生の時だったと思う。
いつものように少年の最新号を読みたくて、キンゾーはブンくんのところで何度目かの鉄人28号を読んでいた。
息をつけないほど、緊張集中して漫画を読む。もう、意識は正太郎少年に没頭していた。
主人公の正太郎少年、ガキのくせしてネクタイ、ジャケット姿だし、警察署長とタメ口、鉄人の操作は遠隔リモコンってんだから、時代を感じる。今から考えると、正太郎少年、ナメたキャラクターだよな。
「ねぇ、キンゾー」とブンくんがポツリという。
鉄人28号を中断されたのがちょっとイヤだけど「なん?」と少年キンゾー。
「オレ、転校するかもしれん」
(エーッ!ブンくんがおらんごとなったら、少年が読まれんやない!)
少年キンゾーは動揺していた。
「どこに転校すると?近くやったらいいとにね。どこ?」
キンゾーはブンくんの転校先ができるだけ近いように願った。近くだったら、鉄人28号を読みに、自転車の三角乗りで行けるかもしれない。
「北に」
「北?知らん。どこね、それ」
「地上の楽園。共和国」
「はぁ?きょーわこく?なんか、うらんしか(=妙な)名前やね」
「首領様がおんしゃって(=おられて)から、なんもかんもタダたい。家も病院も学校も、全部たい」
「働かんでよかとね」
「うんにゃ。ばってん、その人に合うたごとすりゃよかと。キョーサンシュギていうとぜ」
「は?なんて?」
「キョーサンシュギたい」
「キョーサンシュギ?知らん、せーなたぁ(=そんなものは)」
所詮、小学生にマルキシズムなんぞは無理なのである。
「外国ね、その北ていうとは?」
キンゾーは鉄人が読めなくなるな、と直感していた。
「うん、そう。だけん、キンゾーとはもう会えんかもしれん」
「そげな…。たまには帰って来るっちゃろうもん?」
「どやろかね。わからん。オレは友達もおらんけん、行きとうなかばってん、父ちゃんも母ちゃんも、北に行く、て言いよんしゃっちゃん」
キンゾーはなにも言えない。
「ま、よかたい。ビナ(=小さな巻貝。正式名は知らない)の茹でちゃるけん、食わんな」
「ありがとう。呼ばれろう」
五円玉の穴でビナ貝の尻を折り、チュルチュルと貝肉を啜る。生臭みと濃厚な海のエキスが口腔に広がる。
なんだか妙な気まずさが漂っていた。
「なら、ブンちゃん、帰るけん」
「おぉ、キンゾー、また来ないね」
「うん。来月号、また見せちゃりね」
「キンゾー、ほんと好きやなぁ、鉄人が」
それが、ブンくんとの会話の最後だった。
それから半月もせずに、ブンくんはいなくなってしまった。クラスでのお別れの挨拶もなにもなく、忽然、そういっていいほど学校から消えてしまった。
ブンくんの同胞が同じ学年に何人かいた。キンゾーは彼らにブンくんの消息を尋ねた。
「ブンくんは、どげんしたと?」
彼らは悲しげに首をふるばかりだったが、そのなかの一人が少し説明をしてくれた。
話によればブンくん家族は慌しく新潟へ向かったという。
「ニイガタ?ニイガタてどこね?」
「遠かよ。汽車じゃ一日じゃ着かんっちゃなかろうか」
「日本ね」
「うん、そう」
「なら、日本におるったい」
「うんにゃ。そのまま船さい乗ってからきょーわこくに帰るとたい」
「ばってん、なしそげん早う行ってしもうたとね」
「ソーレンのエライさんから急かされなったげなたい」
「はぁ?ソーレン?なんね、それは?」
「キンゾー、おまえにゃわからん」
「あんたはどげんするとね」
「オレんとこはミンダンやけん、行かん」
「もー、ややくろしか話ばっかしやね。今度はなんね、ミンダンちゃ?」
「だけん、いいよろーが。キンゾー、おまえにゃわからん、て」
「なら、一つだけ教えちゃり。ブンくんは帰って来らるうとね?」
「そら、オレにもわからん」
「あんた、ミンダンなんやろうが。それでもわからんとね」
子供らしい理不尽な詰り方である。
彼は黙り込んだまま、キンゾーの脇をすりぬけ、自分のクラスへ帰っていった。
キンゾーは納得がいかなかった。
「先生、ブンくんは、何処さい転校したとですか?」
キンゾーが教師に尋ねても、教師はムニャムニャと韜晦するばかりだった。
果たしてブンくんは、北に帰ったのか、あるいは国内のどこかにまだ住んでいるのか、その後の消息は、誰も、まったく知らない。