降ります
もう嫌。もう嫌。もう嫌――
言うことを聞かずに泣く子供に、私の方が泣きそうになる。
油断すれば肩が触れ合うような、日も暮れた車内。疲れた人間を満載した電車の中だ。
そんな中で私の子供は辺り構わず泣き散らす。
年配の女性がそんな私達を笑顔で見ていた。
うるさい――
私はただ純粋に笑みを向けてくれた女性にすら苛立ちを覚える。
泣き出したのは子供の我がままだ。せっかく買ってやったお菓子を、家まで我慢できずに泣き出したのだ。堪らず声に出して叱ると、もっと大声で喚き散らした。
お菓子を買ってあげたのに。重い荷物を持って、この子まで抱えているというのに。仕事で疲れた体で、せっかくの休みに連れ出してやってあげたというのに。大変な思いで生んで、私一人で育ててあげているのに。
そんな思いがつのると、考えてしまうのはその反対の感情だ。
お菓子なんて買うんじゃなかった。
抱えてあげるんじゃなかった。
出かけるんじゃなかった。
生むんじゃ――
私は考えまいと心の中で首を振る。
子供はまだ泣き止まない。
勿論好意の目を向けてくれる人ばかりではない。若い人の中には、舌打ちのような一瞬の視線を送ってくる人もいる。
降りたい――
家の最寄り駅までまだまだなのに、私は次の駅で降りたくなる。
いっそこの子育てから降り――
私は湧き上がってきた感情を誤魔化す為に、子供をまた叱りつけた。
もちろん子供は更に大きな声で泣きじゃくるだけだった。
電車が最寄り駅に一路向かっていく。かなり長い時間を私は子供を抱え電車に揺られた。
混雑は徐々に晴れていった。皆が疲れた顔で私達より先に降りていく。
それだけ遠くに連れ出してあげたのに、私の子供はまだ泣き止まない。
私は空いた席にやっと子供と座る。子供はそれでも泣き止まない。
ドア脇に立っていた若い乗客が、やはりちらりと視線を送ってきた。
何かあなたに迷惑をかけましたっけ――
その視線に私はそう言ってやりたい。
子供は泣き止まない。
もう――
何で私の言うことを聞いてくれないの? 私が悪いの?
何でよ――
尚もぐずる子供を強引に席に座らせ、私は泣き声押さえつけるように強くその腕を握った。
電車がやっと私達の降りる駅に着いた。ドアが開く。
私は安堵とともに立ち上がる。もう二度とこの子と出かけない。そんなことすら考えてしまっていた。
だがそんな訳にもいかない。色々大変だったが、後は電車を降りて少し歩くだけだ。そしたら全てが報われるのだ。
このお出かけも。少し大げさに言えばこの子育ても。
自分にそう言い聞かせて席を立つ。少し気分が晴れた。
暗いことばかり考えていた反動からか、この子を生んでよかったとすら考え始める。
だがその時不意に、私の手から子供の腕の感覚が消えた。
転んだのだ。
考え事をしていた私は、引いていた手をあっさりと離してしまった。あまつさえ一人で一、二歩とドアに向かう。
子供は転んだ途端に泣き出した。今度は痛みで泣き出し、一人で立ち上がろうとしない。
そんな――
慌てて振り返った私。
何? 降りれないの? ドア閉まるんだけど?
私の背中のドア。それはいつも直ぐに閉まる。
えっ? 折り返すの? 次の駅の階段を昇り降りしてまで?
電車は長い。車掌室から私達の様子は見えない。車掌は直ぐにドアを閉めるはず。
この子を抱えて? 重い荷物持って? 早く帰りたいのに?
私は頭の中が疲労と疑問で埋まってしまい、上手く体が動かない。
降ります――
私はこの子育てから降ります。そんなことまでまた考えてしまう。
それでも私は子供の手をとった。でももう間に合わないだろう。
降ります――
私は姿も見えない車掌に懇願するように振りかえる。
だがおかしなことに、ドアはまだ開いていた。
私には何があったのか分からない。でもこの幸運に脇見も振らずドアから飛び出した。
駅に降りた私は安堵とともに電車に振りかえる。
何かが視界の端で動いた。ドアの脇に立っていた乗客が、そこから顔を引っ込めたのだ。
その乗客に子供が無邪気に手を振った。ドアが閉まり、去りゆく乗客が笑顔で子供に手を振り返す。
そして電車の去り際に、車掌が軽く私に会釈をしてくれた。やはり子供が手を振って見送る。
子供にすら直ぐに分かったことを私はやっと理解する。
降ります――
あの乗客がそのことをドアから顔を出して知らせ、車掌も察してくれたのだ。
私はしばらくその場に立ち尽くす。
子供がお家に帰ろうと私の手を引き、私はぎゅっとその手を握り返した。