見習い天使は世界を旅する。
ある日の天界――。
「神様! なぜ私は、いまだに見習い天使のままなんですか!?」
天界に少女の声が響き渡った。神は静かに目を開き、目の前で頬を膨らませている見習い天使を見つめた。
「……では、お前に問おう。なぜ自分が一人前の天使になれないと思う?」
「それが分からないから聞いているんですよ!」
少女は胸を張ると、指を一本立てた。
「言いつけは全部守っています! 仕事の達成率は百パーセント! 処理速度は同期の中で一位! 筆記試験だって満点です!」
さらに指を二本、三本と立てながら、自分がいかに優秀であるかを説明していく。
「それなのに、私より成績の悪い子たちが先に天使になっているんですよ!? 納得できません! ちなみに、あの子たちの仕事を私が代わりにやれば、天界全体の作業効率は二十三パーセントも上がるんです!」
「……お前は本当に優秀だな」
「はいっ! ありがとうございます!」
少女は満面の笑みを浮かべた。神はその様子をしばらく眺めてから、静かに口を開いた。
「お前は少し、優等生すぎるのだ」
「優等生なのに、なぜ駄目なんですか!?」
「天使は神とは違う。お前には、まだ足りないものがある」
少女は腕を組み、真剣な顔で考え込んだ。仕事の達成率は申し分なく、試験でも一度たりとも失敗したことがない。それでも足りないものがあると言われれば、思い当たることは一つしかなかった。
「……分かりました! 仕事量ですね!」
「違う」
「では、処理速度でしょうか?」
「それも違う」
「まさか……筆記試験に百点以上があるんですか!?」
神は何も答えず、しばらく少女を見つめていた。言葉で説明したところで、今の少女には理解できそうにない。
「そんなに早く、一人前の天使になりたいか?」
「もちろんです! 誰よりも早くなりたいです!」
「ならば、ひとつ試練を与えよう。下界へ降り、世界を見て回る旅をしてくるのだ」
「世界を……?」
少女は目を丸くした。これまで天界で与えられてきた仕事とは、まるで違う内容だったからだ。
「お前に足りないものが何なのか、自分で見つけてくるがよい」
「なるほど! 実地研修ですね!」
「……まあ、そう思っても構わん」
「ちなみに、合格基準と制限時間は?」
「ない」
「えっ!? 採点方法は!?」
「ない」
「そ、それじゃあ、何を目標に頑張ればいいんですか!?」
「それを見つけるのも、お前の試練だ」
少女は頭を抱えた。合格基準も制限時間もなく、採点方法すら教えてもらえない試験など聞いたことがない。これでは、どれだけ努力すればいいのかも分からなかった。
「天使の力は下界でも使える。ただし、お前が天使であると知られれば、二度と天界には戻れん。それだけは忘れるな」
「正体を隠せばいいんですね! 分かりました!」
少女が元気よく返事をすると、神はゆっくりと杖を掲げた。
「では、行ってくるがよい」
「はいっ! 必ず一番で帰ってきます!」
「……競争ではないのだがな」
神が杖を振り下ろした瞬間、少女の足元が消え去った。
「……え?」
身体が宙に浮き、次の瞬間には凄まじい勢いで落下し始める。少女は慌てて手を伸ばしたが、つかまるものなど何もなかった。
「ちょっ、神様!? まだ準備が――うわあああああっ!!」
*
まばゆい光に包まれながら、少女は空を真っ逆さまに落下していた。眼下には広大な森が広がり、木々の一本一本が恐ろしい速さで大きくなっていく。
「そ、そうだ! 翼を広げれば……!」
慌てて背中に力を込めたが、いつものように翼が広がる感覚がない。不思議に思って手を伸ばすと、そこには何もなかった。
「翼がないいいいっ!? ……って、輪っかもない!? 神様、聞いてませんよおおおっ!!」
ドゴォォォンッ!!
凄まじい轟音とともに地面へ激突し、大量の土煙が舞い上がった。
「……いたたた」
土煙の中から顔を上げた少女は、身体についた土を払いながら、腕や足を順番に確認した。あれほどの勢いで地面に叩きつけられたというのに、擦り傷一つ見当たらない。
「腕よし、足よし、頭よし……うん! 怪我はゼロ! さすが天使の身体だね!」
少女は満足そうに頷くと、改めて周囲を見渡した。天界へ戻る方法も分からない以上、まずは人のいる場所を探す必要がありそうだった。
「さてと……世界を見て回ればいいんだよね。どこに行けばいいのかな?」
ふと見上げると、森の向こうから黒い煙が立ち上っていることに気づいた。
「あっ! あそこなら人がいるかもしれない! まずは情報収集だね!」
少女は迷うことなく、煙の上がる方角へ走り出した。
*
森を抜けた先には、小さな村が広がっていた。しかし、少女が目にしたのは穏やかな風景ではなく、家々が炎に包まれ、人々が悲鳴を上げて逃げ惑う惨状だった。
「……魔物が人間を襲ってる?」
村の入口では、一人の男が扉を必死に叩いていた。その背後からは、巨大な狼の形をした魔物が鋭い牙を剥き出しにして迫っている。
「開けてくれ! 頼む、助けてくれ!」
「危ない!」
少女は反射的に指先を向け、天界で習った初級の拘束魔法を唱えた。
「『金縛り(バインド)』!」
光の輪が魔物を縛り上げ、巨大な身体が硬直して地面へ倒れ込む。
「よしっ! 一体目!」
少女は周囲を見渡し、暴れ回っている魔物の数を素早く数えた。
「こっちに三体、向こうに二体……全部で十二体かな? 一匹ずつ処理するのは非効率的だよね!」
両手を広げ、ほんの少しだけ魔力を込める。
「『広域金縛り(エリアバインド)』!」
少女の足元から幾重もの光の輪が広がり、一瞬で村全域を駆け抜けた。光に触れた魔物たちは一斉に硬直し、次々と地面へ倒れ伏した。
「やった! まとめて拘束成功! うん、やっぱり一括処理が一番早いね!」
その時、燃え盛る家の前から男の絶叫が聞こえてきた。
「ミーナ! ミーナ、返事をしてくれ!」
炎の中へ飛び込もうとする男の腕を、少女がつかんで引き止めた。
「待って! そこに入ったら危ないですよ!」
「離してくれ! 中に娘がいるんだ!」
「私が助けます! あなたはここで待っていてください!」
少女は男を安全な場所へ下がらせると、燃え盛る家に向けて手をかざした。
「『消火』!」
ドバシャァァァンッ!
天界の初級生活魔法のつもりだったが、放たれた水は巨大な濁流となって家を包み込み、一瞬で炎を消し去った。少女は崩れかけた屋根を魔法で支えながら家の中へ踏み込み、倒れていた幼い女の子を抱き上げて戻ってきた。
「はい! 救助完了です!」
男は娘を受け取ると、その場に膝をついて泣き崩れた。
「ミーナ……よかった……本当によかった……!」
少女は女の子の怪我を治し、脈拍に異常がないことを確認した。これで救助は完了したはずだったが、男は娘を抱きしめたまま泣き続けている。
「……あの、怪我は全部治しましたよ?」
「……ありがとう。本当に、ありがとう……」
「もう危険はありませんから、泣くより避難した方が合理的だと思いますけど……」
男は涙を拭いながら何度も頭を下げた。少女は不思議そうに首を傾げつつも、次の現場へと向かった。
(怪我も治したし、危険も去ったのに、どうして泣いているんだろう……? まあいいや、次! 目指せ全員救助!)
*
村の中央では、一人の少年が魔族の男と死闘を繰り広げていた。
少年の左腕からは血が滴り、足元もおぼつかない。それでも剣を手放さず、魔族の男を睨みつけている。対する男は余裕の笑みを浮かべ、少年をいたぶるように攻撃を繰り返していた。
「あの女の予言通りだ。この村に勇者となる男が育つという話は、本当だったようだな」
「なぜ村を襲った! こんな何もない村を……! みんな、お前たちに殺されたんだぞ!」
「ふん。死にゆく貴様が知る必要はない」
魔族の男が手を掲げると、禍々しい黒い魔力が暴風となって渦巻き始めた。周囲の小石が宙へ浮かび、空気が激しく振動する。
少年も最後の力を振り絞って剣を構えた。刀身に蒼い雷が激しく爆ぜ、足元の土が焦げていく。
そこへ、少女が駆けつけた。
(……あの男、相手を倒せるのに、わざと戦いを長引かせてる? 無駄な魔力を使って、何がしたいんだろう?)
少女は二人の戦力差を素早く見極めた。少年の負傷は深刻で、このままでは次の攻撃に耐えられない。魔族の男にも攻撃を止める気配はなく、戦闘を継続させる理由はなかった。
「はいっ! そこまでです! 二人とも、もう戦うのはやめてください!」
「……何!?」
「君!? 危ない、下がってくれ!」
少年は少女に視線を向けたものの、すぐに魔族の男へ剣を構え直した。
「だって、そんなに魔力を使ったらもったいないですよ! あなたは瀕死だし、そっちの人も余計な魔力を消費しています。これ以上戦っても、双方が損をするだけじゃないですか!」
「……ふざけるな!」
少年は剣を構えたまま、怒りに震える声を上げた。
「こいつは村の仲間を殺したんだぞ! 僕の家族だって……!」
「でも、あなたまで死んだら、助けられる人が一人減っちゃうじゃないですか!」
「……損得の話じゃない!」
少年の声が震えた。
「僕は……みんなを守れなかったんだ! それなのに、何もせずに逃げろっていうのか!?」
「逃げろとは言ってませんよ。まず怪我を治して、勝てる方法を考えた方がいいって言ってるんです!」
少女は真剣だった。戦力差がある相手に、負傷したまま挑み続けても勝率は下がるだけだ。いったん退いて態勢を立て直す方が、どう考えても合理的だった。
しかし、少年は唇を噛み締めたまま、何も答えなかった。
「……君には分からないよ」
その言葉に少女は首を傾げた。自分の説明に間違いがあったとは思えなかったが、少年の表情はさらに険しくなっていた。
「くだらん話は終わりだ!」
魔族の男が苛立たしげに叫び、黒い魔力を一気に解き放った。
「まとめて灰になれぇッ!」
巨大な黒い奔流が二人に襲いかかる。少年は少女を庇おうと前へ踏み出したが、それよりも早く、少女が片手をかざした。
「『防御障壁』!」
――ズドォォォォンッ!!
まばゆい聖なる光が少女を中心に広がり、押し寄せていた黒い魔力を一瞬でかき消した。衝突の反動で魔族の男は数歩後退し、少年の剣に宿っていた蒼い雷までもが跡形もなく霧散してしまう。
「……なっ!?」
魔族の男が目を見開いた。
「そんな……僕の雷まで消えた……!?」
少年も自分の剣を見つめたまま固まっていた。少女は二人の反応を不思議に思いながら、自分の手を見下ろした。天界では初歩の防御魔法だったはずなのに、下界では想像以上の効果があるらしい。
(……あれ? ただの初級防御魔法なのに。もしかして下界って、全体的に魔法の水準が低いのかな?)
少し考え、少女は納得したように頷いた。
(それなら初級魔法だけで十分だね! 省エネで効率的!)
だがその直後、神の言葉が脳裏をよぎった。
――『お前が天使であると知られれば、二度と天界には戻れん』
(……あっ! まずい! 目立ちすぎたかも!)
少女は慌てて手を後ろに隠し、何事もなかったように笑顔を作った。しかし、魔族の男は冷や汗を流しながら少女を凝視している。
「……貴様、何者だ? 上位魔族の俺の魔力を、ただの障壁で消しただと……!?」
少女は一瞬だけ考えた。下界で魔法を使う者は魔法使いと呼ばれる。天界で学んだ知識から、今の状況に最も適した身分を選び出した。
「私は旅の魔法使いです! まだ見習いですけど!」
「……見習いだと?」
「はい! 修行のために世界を旅しているんです!」
少女は自信満々に答えた。見習いであることも、世界を旅していることも事実なのだから、問題はないはずだった。
しかし、魔族の男はさらに顔を強張らせた。
「見習いの魔法使いが、俺の魔法を消したというのか……? その聖なる光、ただの人間が扱えるものではない……!」
(……あれ? もしかして疑われてる?)
少女は男の反応を観察し、すぐに判断した。ここで慌てて否定すれば、かえって怪しまれる。ならば、相手が納得できる説明をするべきだ。
「私、魔法の成績だけは良かったんです! だから、ちょっと威力が強いだけですよ!」
「……ちょっと、だと?」
「はい! 今のも初級魔法ですから!」
少女は得意げに胸を張った。
その言葉を聞いた魔族の男は、信じられないものを見るような目で少女を見つめた。
「……初級魔法で、俺の全力を消したというのか……?」
男の顔から血の気が引いていく。
「……貴様、本当に何者だ……?」
少女は困ったように首を傾げた。
(……おかしいな。ちゃんと説明したのに、どうして余計に疑われてるんだろう?)




