第58話 死の抱擁と、届かぬ祈り
玄天機は浩然の言葉を遮るように、腹の底から響く高笑いを上げた。その咆哮とともに放たれた衝撃波が、浩然の体を石柱へと叩きつける。
「救うだと……? 理想を捨てられぬ若造が、何を傲慢なことを!」
玄天機は一歩踏み出した。その瞳には二十五年分の怨嗟が渦巻いている。
「私がまだ『玄天』と呼ばれていた頃の話だ。私は愚かにも信じていた。北斗の剛と南斗の柔が合わされば、この江湖に戦乱のない理想郷が作れるとな。その架け橋となることに、私は己の人生のすべてを捧げていたのだ」
玄天機の声が、湿り気を帯びた憎悪に変わる。
「だが、あの夜……私が心血を注いで用意した和解の儀式は、地獄へと変わった。両派の強硬派どもが仕掛けた罠により、凄惨な同士討ちが始まったのだ。私の目の前で、最も信頼していた友たちの胸を、両派の剣が貫いた!」
彼は自らの胸元を掴み、吐き捨てるように続けた。
「飛龍が倒れ、動揺した私に刃が迫ったその時だ。芽衣が……私を庇い、その背に北斗の刀を受けた。崖から飛び降りた私を待っていたのは、冷たくなっていく彼女の体だけだった」
玄天機の指先が、怒りに震える。
「彼女は最期に、私に希望を託した。その一言を遺して、私の光は永遠に消えたのだ!」
一瞬の沈黙が廟を支配する。玄天機は、夜空を見上げるように顔を上げた。
「……その時、私は悟った。光を繋ごうとするから、影が生まれる。ならば、いっそすべてを闇に染めれば、争いはなくなるのではないか? 人間という愚かな星は、どれだけ導いても正しく並ぶことはない」
彼は浩然を指差し、断罪するように叫んだ。
「ならば、一度すべてを消し去るしかない。私が唯一の『紫微星』となり、この腐った天を創り直す! それが、私が辿り着いた唯一の解だ!」
理想という「星」を見失い、冷酷な支配者へと変貌を遂げた男。その絶望の深さに、浩然は一瞬、呼吸をすることを忘れた。
浩然は、かつて旅路で抱いた疑念を、叩きつけるように投げかける。
「……蘇沐陽という名に、聞き覚えは」
「ああ、もちろんだとも」
玄天機は、愉悦を隠そうともせずに目を細めた。
「芽衣の妹分であり……私が殺した女だ」
「貴様……! なぜ母を殺した!」
浩然の叫びを、玄天機の冷笑が遮る。
「あの女は、あの地獄を経験した後もなお、己の正義が人のためになると信じていた。その無垢さが、反吐が出るほど目障りだったのだ」
玄天機の脳裏に、かつての記憶が過る。
最愛の芽衣を慕い、「師姉のこと、ちっともわかってないのね!」と自分を突き放した、お転婆な沐陽。
そして十二年前、とある村で。かつての面影を残したまま、慈愛に満ちた笑顔で民を救っていた彼女の姿。
「私はあの女の間違いを正したに過ぎん。あいつは、自分が助けた者の裏切りで命を落としたのだ。……浩然、お前が連れてきた『黄先生』を覚えているか? あれは我が教団の手下だ。お前が男を招き入れさえしなければ、母は死ななかった。……母を殺したのは、お前自身なのだよ」
「……っ!」
衝撃に浩然の剣が揺らぐ。自責の念が全身を回り、内功が乱れる。その隙を玄天機は見逃さず、死の指先を浩然の心臓へと突き出した。
だが、その指先が届くより速く、一条の銀光が空を裂いた。
「南斗の誇りを……侮辱するな!」
烈火のごとき咆哮。浩然を突き飛ばして前に出たのは、南斗派宗主・徐峰であった。
浩然が窮地に陥った刹那、徐峰は「師父」という仮面をかなぐり捨て、見たこともないほど荒々しく、凄まじい剣気を爆発させた。
彼は腰帯の軟剣を、一瞬の澱みもなく引き抜く。
その動きは風に舞う柳のように静かでありながら、次の瞬間には獲物を狙う蛇のごとき速さで玄天機の喉元をかすめる。
「師父……!?」
驚愕する浩然の耳に、玄天機の嘲笑が届く。
「久しいな、徐峰よ。……姉を救えず、愛する女を救えず、今また息子一人救えぬか。つくづく哀れな男よ」
息子——。
その言葉が、浩然の胸を貫いた。
目の前で自分を庇い、剣を振るう徐峰の背中。それが、幼い頃に母から聞いた「大きな山のような人」の姿と、鮮烈に重なり合う。
(やはり、この方が……。私の、父だったのか)
溢れ出す熱いものが浩然の視界を滲ませる。だが、喜びを噛み締める暇はない。
南斗派宗主の全力をもってしても、玄天機に深手を負わせることは叶わなかった。絶望的な力の差を前に、親子は背中を合わせ、死地へと追い詰められていく。
◇
玄天機が放つ不可視の圧が、浩然の体を無慈悲に地面へと押し潰した。
もはや「捨生断脈散」の効力すら限界を超え、体内を駆け巡る毒と内功の暴走に、浩然は激しく吐血し膝をつく。
(ああ……指先ひとつ、動かない……)
朦朧とする意識の中で、浩然は己の魂の根源にある願いを、祈るように呟いた。
「私はただ……周りの人に、幸せになってほしい。そして、その人たちの大切な人にも……傷ついてほしくない、だけなんだ……」
その言葉を聞いた瞬間、玄天機の顔に歪んだ愉悦が浮かんだ。
「浩然……。その真っ直ぐな瞳、そのおぞましいほどに清廉な志……。かつての私にそっくりだ」
玄天機はゆっくりと浩然に近付いてくる。
「……ああ、早くその瞳が、絶望で泥のように濁る瞬間が見たい。救いなど、この世のどこにもないことを、その身に刻んでやろう」
玄天機の掌に漆黒の気が凝縮される。
もはや剣を握る力も、立ち上がる術も残されていない。
浩然は、迫りくる死の抱擁を前に、「やはり、宿命は変えられなかったのか」と、自嘲気味にゆっくりと瞼を閉じた。




