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あたしと小野くんの古典特別授業は、その後も週に2回くらいのペースで行われた。すべて、小野くんの寛大な心のおかげだ。小野くんは日程をいつもあたしの都合に合わせてくれて、嫌そうなそぶり一つ見せずに、この出来の悪い生徒の面倒を見てくれる。本当、頭が下がる思いだ。
あたしはというと。小野くんの優しさに応えられずに、毎回落ちこぼれぶりをさらしていた。絶望的なほど、あたしの頭の中には古典の知識が入っていかないらしいのだ。何度も何度も忘れて、同じ間違いを繰り返す。それが覚える近道だって、小野くんは言ってくれるけれど。
「……つまり、同じ推量の助動詞でも、『なり』は『音あり』で耳からの情報、『めり』は『見あり』で目からの情報で推量する、ってことで……」
「わー、ちょっと、ちょっと待って!」
あたしは頭を抱えた。頭の中がこんがらがって目が回りそうだ。助動詞がぐるぐると渦をまいている。
「『なり』って、この前は完了の助動詞ってやらなかった……?」
うん、と小野くんは頷いた。
「それとは別で、今度は推量。」
助動詞ってやつは!
あたしはがっくりと机に突っ伏した。前回のこの特別授業でも、やたらと意味の多い助動詞「む」に苦しめられたばかりだ。どうして昔の人は、こんなに面倒くさいものを使っていたのだろう。
「一度覚えちゃえば、楽だから。頑張れ。」
小野くんが励ましてくれるけれど、あたしはため息を抑えられない。
「あたし、理系なのにな……。」
どうしてこんなに、必死こいて古典なんかやっているんだろう。もちろん、今は進級がかかっているからですが。でもどうせ、あたしには必要なくなってしまう教科だ。
我が高校の文理選択はいつも、3年生に上がってから行われる。広い知識を身に付けるため、という学校の方針らしいけれど、これは他の高校に比べると遅いらしい。だからこうして、理系志望のあたしが古典に苦しめられ、また逆に文系の人が物理化学に苦しめられるという事態が起こる。
あたしの友達に日野頼子という子がいるが、こいつは文系志望で、いつもすごく難しい応用にまで踏み込むこの学校の数学にキレている。文理は違えど、あたしと頼子に共通するのは、「必要ないのに!」という思いだ。
小野くんは少し口の端をゆるめ、苦笑した。
「確かに、文系の俺と理系の藤原さんじゃ、古文のモチベーションに差があるのは仕方ないことだけど。
――古文ってさ、高校生が一番嫌いな教科らしいね。」
「そうなんだ。」
わかるな、それ。
心からの同意をこめてあたしが頷くと、小野くんは苦笑しつつ軽く息をついた。
「そんなに嫌わなくてもいいのに。……でも、文系にも理系にも、古文嫌いな人はたくさんいるよなぁ。単語や問題パターンをひたすら覚えるだけで、しかも何の役に立つのかよくわからない教科だから。」
呟く小野くんの顔は、少し残念そうというか、寂しそうな表情だった。
嫌われ者の古典。
「……でも小野くんは、古典が好きなんだよね。」
あたしがそう聞くと、小野くんは意外そうにこちらを見つめて、それからふと笑った。
「――うん。すげぇ好き。」
いい顔だな、と思った。
小野くんは古典が好きだから、古典が嫌われ者で寂しいんだろうな。
皆から面倒くさい、意味ない、必要ない!と思われている古典。あたしもそう思っている一人だ。古典なんて、今回みたいに進級がかかっていなかったら、わざわざやらないよ。
でも、小野くんは違う。必要だからってだけではなく、彼は古典が好きで、理由を持って勉強している。
小野くんは、古典のどんなところが好きなんだろう。彼をあんな笑顔にする、古典の魅力って何なんだろう。
あたしにはまだわからない。嫌々、勉強し始めたばかりだから。小野くんの上達部には遠く及ばない。
たぶん、必要ないからって毛嫌いしていたら、近づくこともできないんだろう。
だとしたら、こうして強制的にでも古典の勉強をしている今は、もう二度と来ないかもしれないくらいの、すごいチャンスなんじゃないかな?
「――あたし、理系志望だけど。どうせいらない、とかもう言わずに、古典頑張るね。」
気づいたら小野くんに、そう宣言していた。
「――うん。」
小野くんは唐突な発言を笑ったりせずに、ひとつ頷いた。
その顔を見つめていたら、何故か無性に恥ずかしくなって、あたしはうつむいた。ごまかすように、前髪のコンコルド・クリップをとめなおす。頬が、なんでだろ、急に熱くなった気がする。
嫌いな古典だけれど、いつか少しはそのおもしろさがわかるようになればいい。上達部までは無理にしても、頑張って出世して、下級役人くらいになれたらいいな。
そんなバカなことを考えて、ふと気づいた。あたしは一応、女だから、役人よりは姫なのだろうか。まさか。
やめやめ、あたしは姫なんて柄じゃない。しがない下級役人くらいがふさわしいんだ。あたしはぶんぶん頭を振って、変な空想を追い払った。ふうっと息をつくと、こちらを不思議そうに見ている小野くんと、目が合った。