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古典の恋  作者:
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 小野孝志くん。残念だけど、顔と名前を覚えているだけで、あたしはまだまともに話したことがない。

 小野くんは穏やかで優しそうな雰囲気をもった人だ。幸い、話し掛けづらい感じではない。けれど彼はどちらかといえば、賑やかな集まりには入らず、それを周りで見ているのが好きなタイプのようだった。だから、お祭りごとが大好きでその真ん中に行きたがるあたしとは、今まであまり接点がなかったのだ。

 意外と鬼なともえ先生は、頼んでみろって気軽に言っていたけれど。

 正直すごく頼みづらい。今まであまり関わったことのないクラスメートから、突然「進級がかかっているから勉強教えて」とか言われて、面倒がらずにいいよって言ってくれるものかな?あたしなら断るかも。

 それに、ファーストコンタクトがこれって、すごく情けない。



 けれど他にどうしようもないので、あたしは授業後に思い切って頼んでみることにした。

こっちはお願いする身、嫌だとか言ってちゃ駄目だ。

 あたしは一応、生徒会執行部の役員をやっている。しがないヒラ執行委員だけれど。今日は、特に仕事がないから放課後は丸ごと空いていて、教えてもらうには都合が良かった。

 もちろん、小野くんの方の都合は、どうなのかわからない。彼は部活とか塾とか、やっているのだろうか。

 ともかく、まずはきちんとお願いしてみよう。あたしは気合いを入れる意味で、前髪をとめているコンコルド・クリップをぱちんととめ直した。くちばしみたいな形のこのアクセサリーが、あたしは好きなのだ。今日は、蝶と唐草模様のようなものをあしらったデザイン。グリーンの濃淡がきれいでお気に入り。


 あたしは廊下側にある彼の席に、そっと近づいた。小野くんは文庫本を読んでいる。カバーがかけられているので、本の題名はわからなかった。

「――小野くん、ちょっといいかな?」

 驚かさないようにしたつもりだったけれど、小野くんは突然声をかけられて、びっくりしたようだった。顔を上げた拍子に、ぱたんと本が閉じられる。

「藤原さん?どうかした?」

 あたしは少しほっとした。名前は、覚えてくれているみたいだ。

「あのさ、ともえ先生から何か聞いてる?」

 先生の話が通っていれば話は早い。そう期待したのだけれど、小野くんはえ、と眉根を寄せた。困惑しているように首を傾ける。

「大江先生?古文の?――いや、特にないけど。」

 ちょっと、ともえ先生!

 あたしは叫びだしたい気分だった。こっちも声をかけておくから、とか言っていたのに、全然あてにならないじゃないか。


 仕方なく、あたしは自ら恥をさらして、ことの次第を小野くんに説明した。ああ、情けない。自分の古文の成績がいかに壊滅的かを話しながら、あたしはどうしても気分が沈んでいくのを止められなかった。胸がずんと重くなっていく。

 今まであまり関わりのなかった人に、ピンチだからって声をかけて、泣きついて。なんて格好悪いんだろう、あたしは。

「……それでね、小野くんが良ければ、暇な時だけでいいから勉強をみて欲しいんだ……。」

 軽く自己嫌悪しつつ全部言い終わると、小野くんは拍子抜けするくらいあっさり了承してくれた。

「藤原さんが俺でいいなら、俺は全然構わないよ。」

 あまりにもすんなり聞き入れてくれたので、あたしはかえって驚いてしまった。

「えっ、本当に?でも、小野くんの予定とかは、大丈夫?」

 小野くんは苦笑した。

「帰宅部で塾も行っていないし、暇な人間だから。別に今日からでもOK。」

 いい人だ。あたしはほれぼれと感心した。ありがたいよ、後光がさしているよ!今なら崇めることだってできそうだ。

「本当にありがとう。じゃあ、早速お願いします。――先生。」

 ちょっと親しみを込めてそう言うと、小野くんも微笑みを返してくれた。



 図書室じゃ声は出せないし、ということで、あたしと小野くんはそのまま教室に残って勉強を始めることにした。小野くんはまず、課題の中から何枚かピックアップしてあたしの前に出した。とりあえず、あたしの力がどのくらいなのかを知りたいらしい。

 彼が選んだのは、助動詞の意味用法や、用言の活用の種類や活用形、それに単語の意味をきいてくるものと、あとは現代語訳の問題だった。

 たぶん基本的なものを選んでくれたんだろうけれど、あたしには十分難しかった。頭を抱えて四苦八苦しながら問題を解いていくと、信じられないことに1時間をゆうに超えてしまった。考え込むわりに何も思いつかず、ほとんど無意味にシャープペンシルをくるくる弄っていただけだったけれど。小野くんはあたしが変な汗をかきつつプリントとにらめっこしている間、じっと辛抱強く待ってくれていた。

 採点をしてみると、やっぱりひどいものだった。意味も活用も、あたしの頭の中には全く入っていないらしい。だから文章も読めない。何を言っているのかわからない。ねぇ、古典ってやっぱり外国語だよね?

 あまりにもひどい結果に、あたしは机にがっくりと突っ伏した。小野くんは正解の少ない(もしくはない)プリントを見て、ちょっと困ったような顔をしていた。厄介なものを引き受けたこと、後悔しているのかもしれない。

「……まぁ、これから頑張ろうか。」

 小野くんが、あたしと彼自身の双方を励ますように言った。あたしはいたたまれずに、みじめに背を丸めた。

「なんか本当に……こんなんでごめん。」

 あれだけ時間をかけておいてこれかよ、と自分でも言いたくなるくらいだ。長いこと小野くんを待たせたのに。ヘコむあたしに、小野くんはちょっと笑いかけた。

「これから覚えていけばいいよ。」

 あたしは、お腹の底からため息をついてしまった。

「その、覚えるっていうのがさ……。古典って、やっぱり暗記科目だよね。」

 ひたすら暗記するのって、すごく苦手だ。地歴公民もそうだけれど。でも、まだ社会科目の方がある程度役立つ知識だと思う。古文単語はなぜ覚えなければいけないのか、あたしの中でまだ納得できる答えがないのだ。

 小野くんは頷いた。

「そうだね。結構、覚えないと始まらないところがあるし。

 ――藤原さんは、そういうの苦手?」

 あたしは力なく、こくりと頷いた。小野くんは少し考えるようにあごに手をあてて、凄惨な結果となったあたしのプリントを一枚、ぴらりと手に取った。

「確かに、暗記はある程度必要だと思うけど。でも、古文はそれだけじゃないから。」

 小野くんの手にあるのは、現代語訳のプリントだった。例えばこれだけど、と言って、ごそごそと自分のシャープペンシルを取り出す。

「古文って、今の言葉だけで考えてたら全然わからないだろ。昔の言葉の知識がないと読めない。だから暗記するんだ。暗記する知識はただの手段。一番大事なのは、その文章が何を言っているのかを読み取ることだよ。」


「――どうして、昔の文章の意味をわからなくちゃいけないの?」

 こんな大変な思いをして。どうせ、今は使えない言葉なのに。

 ずっと考えてきたことだからか、ぽろっと小野くんをさらに困らせる質問をしてしまった。そんなことを小野くんに聞いたって、意味がないのに。すぐに、そのことに思い当たって、内心で慌てた。だって、今のあたしでは、どんな答えにも納得できないのは明らかだ。あたしは古典が嫌いなのだから。

 小野くんは困ったように頬をかいた。

「それは俺も答えられないけど。――でも、今は使わないけど、古典も言葉だから。言葉って、誰にも意味がわからずに伝わらなかったら、死ぬものだから。」

 だから俺らが学んでいるんじゃないかって、思ってる。そう言って、小野くんは少し照れくさそうに笑って、がりがり頭をかいた。

「なんか、すごく恥ずかしいな。変なこと言った。」

「全然、変じゃないよ。」

 ふるふる首を振って否定した。あたしは感動したのだ。小野くんは古典が好きなんだな。ちゃんと考えて、理由を持って勉強している。それって、本当に「学んでいる」って感じがする。

「まぁ、それは置いておいて。――古典の文の言っていることがわかるって、結構、できると快感だよ。」

 小野くんはそう言って、プリントのあたしが書いた答案の横に、さらさら書き始めた。あたしはその手元を覗き込む。

 それは、魔法みたいだった。

「うわ――。」

 思わず感嘆の声を上げる。


『出家して悟りを開こうとする人は、捨てきれない気がかりなことを途中で止めて、そのまま捨てるべきである』(徒然草 第五十九段)

『あの白く咲いている花を、夕顔と申します。花の名前は人のようで、このような粗末な垣根に咲くのでございます』(源氏物語 夕顔)


 うろ覚えの単語を、そのまま不細工につぎはぎしただけのあたしの現代語訳の横に、小野くんは流れるように自然な訳を書いていった。不自然なあたしの解答とは比べるべくもない。ちゃんと、意味のわかる言葉。小野くんはこの文の言いたいことがわかっていて、そしてあたしのような他の誰かにもわかる形に、さらりと変えることができる。あたしには思いもつかなかった語彙を使って。

 わかりやすくて自然なその口語訳に、あたしはほれぼれとした。

「すごい、小野くん。――上達部みたい。」

 上達部かんだちめというのは、貴族の中でも最も偉い人たちのことだ。さっきやったプリントに出てきた、重要単語の一つ。つまり、小野くんはすごく古典ができるんだね、ってことが言いたいのだ。

 小野くんは一瞬きょとんとして、おかしそうに声を上げて笑った。

「何、上達部って。藤原さんっておもしろいなぁ。」

「いやー、だって小野くんの古文力って、平安の貴族並みだと思うよ。」

「そんなわけないだろ。」

 小野くんはツボに入ったらしく、まだハハハと笑っていた。あたしは調子に乗って、にやにやしながら言った。

「よし、これからは『殿』とか呼ぼうかな。」

 小野くんはふと笑うのをやめて、真面目な顔になった。

「それは、嫌だな。」

 もちろん、冗談です。


本文中の訳は、拙い自己流です。ご注意ください…

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