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 アクセルを踏む。その足は、どこか震えているような気がする。


 シュークリームを店から取ってくる間も、どこか焦燥のようなものがひりひりと焼き付いていた。なんとなく嫌な予感がしたのだ。あの美生さんを一人にして大丈夫だっただろうかという不安が、心を掴んで離さなかった。


 まぁ、考えすぎだろう。


 とは思う。いつものことだ。情緒不安定で、僕を振り回すのは。


 だけど、あの自殺の夢を見てから、どうしても彼女を一人きりにするのに怯えている自分が居た。だから、行きも帰りもかなり急いだ。不安症に身を任せるように。下道で八十キロは出ていたと思う。

 そして、美生さんの家に着いた。


 そしたら、美生さんのアパートは火達磨になっていた。


 その光景を見て、夢を見ているみたいに思った。それが現実だと受け入れられないような。家の前では、美生さんが立ち尽くしている。車のエンジン音が届いたのだろう。美生さんは、ぼんやりと感情を失ったような瞳で、ゆっくりとこちらを見る。


 一体、何がどうなって、こんなことになっているのだろう。


 呆然としている余裕はないのは分かっていたけど、身体に力が入らなかった。僕はなんとか自分を奮い立たせて、車のドアを開けて外に出る。熱気が風をまとって身体にあたる。ばちばちと木材の爆ぜる音がする。炎はまだ勢いを増して、破壊の限りを尽くそうとしている。


「何をしたんですか?」


「火、つけちゃった」


「……理由を聞いても?」


「一言で言うなら、むしゃむしゃしてやった、とか?」


「……一言で言わないでください」


「……燃やせば、全て無かったことになるんじゃないかと思ったんだ」


 そう彼女は壊れた機械人形のように、ぽつりぽつりと漏らした。その答えは、理由になっているのだろうか。だけど、何かに憑りつかれているように焦点の合わない目で、意思が抜け落ちた表情でそう呟く彼女を見て、思う。


 もう、とっくのとうに限界は越えていたんだなと。


「話したっけ。私好きなんだ、火って。全てを無かったことにしてくれそうだから」


「……」


「燃やせば、私の過去も全部無くなるんじゃないかって」


「そんなことあるわけ……」


「心を、生まれ変わらせたかったの。今までの全部を無かったことにして」


「……」


「これから、私は葡萄と結婚する。なのに、今までの私は暴力だって振るうし、いつまでも死にたいし、どうしようもない。だから、もう過去を全部投げ捨てたかった」


「……そのために、わざわざ実家に帰ってきたんですか」


「そういうわけではないよ。衝動的に、やっちゃっただけで。でも、後悔なんて何一つない。私は過去の一番根深い部分に火をつけた。そしたら、その過去を思い出しても何も感じなくなったの。いつもは死にたくなるのに」


 そんなの一時的な気分の高揚で、波が落ち着いたらどうせ後悔で泣き喚くのだろう。とんでもないことをしでかしたって、更なる絶望の淵に落ちていくのだろう。ぼうぼうとアパートはまだ火の手に包まれていて、僕らにそれを消火する術はない。下手したらこの炎は津波みたいに広がって、街を火の海にしていくだろう。


 その光景を見届けて、美生さんの心は耐えられるのだろうか。一体、どれ程の自責の念が彼女を襲うのだろう。


「とりあえず、帰りましょう。ここは危険ですから」


「……うん」


 そして、車に戻り燃え盛るアパートを置き去りにしながら、僕は思う。


 彼女が放火なんてしたのは、僕のせいじゃないかって。


 僕が結婚なんて言い出したせいで、彼女が追い詰められたんじゃないか。いや、赤ちゃんを産もうという話をして、それが失敗した時から罪悪感を抱いていたのかもしれない。


 美生さんは多分、結婚なんて本当は望んでなかった。


 今更悔恨(かいこん)するように、思う。きっともう人並みの幸せを手に入れることすら、諦めていたのだ。なのに、僕が求めたのは彼女にちゃんとすることで、だから彼女はこんなことをしでかした。


 きっと二人とも、無理をしていたのだ。生きるということについて。


 それを理解してなおこの人生を続ける意味など、あるのだろうか。


 そもそも、どうして今まで生きてきたのだろうと考えてみる。こんな苦痛にまみれた気持ちになってまで、人生を続けていた意味を。


 答えは多分そんなに難しくはない。幸せになりたかったのだ。今の状態から抜け出したいから、この一切光の見えない現状から抜け出したいから生きていた。けれども。


 きっともう、どう生きてみてもそんな光は見つかることはない。僕らは傷だらけになって色々な方法を試して、色々なものに縋って戦い抜いてきた。


 だけど、幸せになりたいという願望だけでこれ以上日々を切り抜けていくのは、もう無理だ。僕はまだしも、美生さんは。


 彼女の為、今隣に座っている美生さんの為に、考えてみる。彼女はきっと壊れてしまうほどの無理を重ねて、僕に着いてきてくれた。死なないでいてくれた。


 きっと今なお続けている呼吸は僕が我儘に生き続けたから、在る。我慢して、僕と同じ歩幅を歩いてくれている。


 なのに、そんな美生さんを巻き込んで、放火させるまで追い込んでまで、この人生を続けたいと思うのか。


『だからこそ、賭けてあげる。このままじゃ、これから続くあなたたちの物語の結末は、不幸な破滅しかないってこと』


 いつだったかそう、△△の幻聴が僕の耳元で囁いた。この時から、僕は気づいていた。何かを変えなければいけないってことを。


 例えば、自死についての考え方とか。


 そして僕は、今からする話は運転しながらじゃだめだなと、車を路肩に止める。彼女はぼんやりとそれに気付いて、不思議そうな目で「どうしたの」と問うてくる。


「ねぇ、美生さん」


「なに、葡萄?」


「一緒に死のうって僕が言ったら、美生さんはどうする?」


「どうするって。どうしたの、突然」


「いいから、答えて」


 そう問われた美生さんは相変わらず生気がない。だけど、少し考え込むように目を伏せた後、ぽつりと。


「……どっちでもいいなぁ」


「……どっちでもいいって。大切な話なんで、もっと考えてみてください」


「……ええ、分かったよ。ちょっと待ってて」


 そう不承不承といった様子で、美生さんは「うーん」と唸る。その様子はさっきの自暴自棄気味の表情とは少し違う。ちゃんと考えてる顔だった。


「その理由しだいかな。私が死にたがっているからそう言ってるのなら、止める。だけど、ちゃんと話を聞いて納得できたのなら私も『いいよ』って言う。ついてく」


「じゃあ、美生さん。一緒に死んでください」


「……唐突だね、なんで?」


「きっともう、こんな生活は限界だと思ったから」


「……もしかして、私が家に火をつけたから、幻滅しちゃった?」


「いや、そんなことは……」


「あれはね、私が生まれ変わるためにやったの。葡萄と結婚する私が、新しい私になるために。だからあれは、すごい前向きなことなんだよ」


 そう美生さんは、長々と自分の正当性について説明していた。その自己弁護は、自分のしたことをなんとか正当化しようとしているようにしか聞こえなかった。


 でも生きることはきっと、そんなことを考えるためのものじゃない。


「生まれ変われば、今度は幸せになれるんですか」


「うん。私はもうすでに、あたらしい私になったから」


「ねぇ、美生さん。そんなの気のせいです。たった一つの出来事が、美生さんの過去を全て消し去ることなんて、出来はしない。人生はそんなに薄っぺらくない。人は過去で出来ているから、家に火をつけたぐらいで無くなったりしません」


 そう言った途端、美生さんの表情が固まった。正気に戻ったように、目に光が宿る。声はどこか震えている。


「じゃあ、どうしたら良かったの? 私は、私を作り変えるために、あんなことしたのに」


「……初めから、作り変える必要なんかなかったんです」


「……だって私達、結婚するんだよ? なのに、今までの私じゃ」


「美生さんが今まで生き続けてきたのは、僕の我儘が理由です。僕が付き合わせてしまったから、こんなことになった。神様とか子どもとか結婚とか……色々な出来事を餌にして人生を巻き込んできた。だけど、僕はもっと美生さんの心の声を聞くべきだった」


「何言って……」


「僕はきっと今まで美生さんの幸福が何か、考えてこなかった。だから、ずっと拗れて辛いままだった。僕だって、こんな暮らしとっくのとうに限界だと気づいていたのに」


「……」


「僕は、美生さんに辛い思いをして欲しくないんです。その結果、僕が死ぬことになっても。この人生を捨てることになっても」


「……」


「美生さんが辛い思いをしなくても済むのなら、生きてもいい。そうなれば僕も幸せだから、生きていたい」


「……うん」


「だけど、美生さんが死にそうな思いになると、僕まで同じ気持ちになる。嬉しいことも悲しいことも共有したいけど、悲しみしかないなら一緒に手放したい」


「……うん」


 そう言葉にして思う。この感情こそが愛だと。


 だから、僕はその気持ちを抱いたままで、はち切れんばかりの感情を押さえつけようとぐしゃぐしゃな顔になっている美生さんに、尋ねる。


「ねぇ、美生さんはまだ、この世界で生きていたい?」




 家に帰った後、しばらくして父さんの部屋に向かった。心中という選択をすることを、伝えたい気持ちがあったから。この後は、母さんの部屋にも向かおうと思う。


 それからなんとなく本棚を見渡していくと、その一角に一時期やっていたソフトのケースがあった。夏に入る前にのんびりやっていた、たくさんのミニゲームが入ったゲーム。


 そのタイトルが目に入り、僕は一瞬固まる。


 そして、思わず苦い笑みがこぼれた。


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