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葡萄には内緒にしていたけど、実はずっと体調が悪かった。昨日、実家に帰りたいと彼に伝えたときから。メンタルのせいだってことは、さすがに気付いていた。
『グループメンバーの写真と卒アルを見せて欲しい』
そう言われた私は、頷いて彼を自分の部屋に招待した。四畳ほどもない、葡萄の家からすると物置にしかならなそうな小さなスペース。そこで私は薄っぺらい布団を敷いて過ごしていた。
でも、その小さな空間はママという存在から目を反らせるから、私にとってとてつもないほどの意味と愛着があった。私の心を守ってくれていたのは、真夜中のブルースカイという存在と、この狭い自室だった。
だから、私は大切な思い出を壁に張り付けていた。葡萄はその写真を見て、「いい写真ですね」と言ってくれた。
「……ありがとう」
「いえいえ」
「……んで、問題は卒アルだね。どこ閉まったかな。もしかしたら時間がかかるかもしれないから、リビングで待っててくれる?」
「分かりました」
その返事を横目に、私はアルバムを探すふりをする。場所は一応、分かっている。
けれど私は、過去に触れたくはなかった。忘れたいことだらけの、私の人生。人生の汚点。その穢れは、良かったことすら覆い尽くすから、始末に負えない。
……いけない。また、死が浮かんできてしまっている。今度こそ、私は生まれ変わらないといけないのに。葡萄と結婚するのだから。死にたがる私を卒業しないと行けないのに。そして脳のシナプスが弾けたら、また私は彼に暴力を振るうのか?
それを思うと、猛烈に息を止めたくなってくる。この心臓が早く止まって欲しい。希死念慮の発作に押し潰されそうだった。そしたら考えるべきではないことも頭に浮かんできてしまって。
私は子どもを産む約束を反古にした。もっともらしい理由は言えた。けれども。
私が最も危惧をしていたことはもっと単純で。それは親としては最低の行為で。
でも、私は最低で醜悪で死んだ方がいい人間なので、それをやる確信があった。
……そろそろ、リビングに戻らなければいけない。私は本当に嫌だったけど、仕方なく部屋の片隅にあるクローゼットから二冊の忌む過去を取り出して、リビングに戻った。葡萄はスマホの画面を見つめて、なにかを眺めているみたいだった。
「……あったよ、小学校の時と中学校の」
「おお。拝見しても?」
「……どーぞ」
そして私は、テーブルの上にそれらを置く。すると、葡萄はすぐに「あれ?」と気づいた。
「小学生の時は練馬だったんですか?」
「うん、離婚した時に引っ越したから」
「あぁ、そうなんですね……」
「では、こちらが小学生の時の鈴木美生ちゃんです」
「鈴木……?」
「前の苗字鈴木なんだよね」
「なるほど……」
葡萄は微妙な顔を浮かべて、私が開いた卒アルを覗き込む。家庭事情が複雑だなとか思われてるんだろうか。死にたい。
「この時からショートヘアだったんですね」
「うん。元々、バレーやってたからその名残だね。まぁ、中学校はダンス部だったからやってたの小学生までだけど」
「へぇ……」
この時、写真に残っている私の笑みはまだ朗らかだ。それからページをめくっていくと、運動会のリレーでバトンを持って走る私の姿もあった。赤い鉢巻を頭に被っている。
他の写真だと、林間学校だろうか。山登りの時に、友達と映っている写真。どれも楽しそうで、この時の私に『お前のパパは今現在進行形で不倫しているぞ』と伝えたら、一体どんな顔をするのだろうとか、思う。
次、中学校の方を見ようかと、私は次の卒アルを開く。今度は三年五組。こっちの卒アルは川崎の中学校だ。
「今より少し幼げな感じですね」
「……当時はまだまだ子どもだったから」
「今は違うとでも言いたげな」
「そりゃもう、潜ってきた修羅場が違いますから」
そう、私は強がってみる。クラス写真には、ずらっと並んだ思い出したくない顔たちが集まっている。前のページにも次のページにも。
まぁ、私が悪いってことは気付いている。愛を欲していたから。
だけど、アバズレってあだ名を付けるのは、さすがにちょっとひどくない?
あぁ、いけない。また希死念慮が積み重なってきた。こんな思いになるから、卒アルなんて見せなければよかった。でも、葡萄には、私と結婚する人には私の全てを受け入れてほしくて。どんな痛みにも触れてみてほしくて。
そして元彼に『重い女』って言われたことでも、思い出してみる?
「ねぇ、葡萄」
「なんですか?」
「私、このうちの何人と付き合っていたと思う?」
そしてママ譲りの情緒不安定の私は、また発作を始めるのでした。
葡萄が困惑した顔で「え」と私を見つめる。抑えなきゃいけない、とは思う。
なのに自制が効かないのは、彼に甘えているからなんだ。きっと。
だから、赤子が泣きじゃくるみたいに、私は続ける。
「このクラスだと三人。他のクラスも合わせると十二人ぐらいなの」
「それは、多いですね……」
「で、ついたあだ名がアバズレ。……まぁ、仕方ないとは思うよ。三股って言われてもおかしくないこともやっていたし」
「……」
「愛が、欲しかったんだよね。寂しさを癒す誰かが欲しかった。ぬいぐるみみたいに、抱きしめたりがしたかった。だから、アイドルは天職だった。唯も居たし、承認欲求も満たせるし、心が渇く暇もなかった」
そうぽつぽつと、私は訳の分からない告白をし続ける。私は葡萄に、何を分かってほしいんだろう。
それに気づいたから「ごめん」と謝った。落ち着かなければならない。だけど、葡萄が居ると共感してほしい。誰かが居ると、とめどなかった。今だけは一人になりたい。一人で死ぬまで思いつめたいと思う。
そのためには、葡萄が邪魔だった。
「ねぇ、葡萄……お願いがあるんだけどさ」
「……なんでしょう」
「ちょっと、買い物に行って来てくれない? さすがに水だけじゃ味気ないし」
「いいですけど……。一人で大丈夫ですか?」
「大丈夫。で、買ってきてほしいものだけど……」
そう言って、私はお使いの体で、車で片道十五分ぐらいのところにあるシュークリーム屋さんの名前を言った。葡萄はコンビニフルーツで良くない……? って感じだったけど。
「本当にごめんだけど、ちょっとだけ一人にしてほしいんだ」
と言ったら、分かりましたと頷いて、それ以上は何も言わなかった。やっぱり、葡萄はとても優しい。こんな私にはふさわしくない。
そして、無理やり葡萄を買い物に旅立たせた私は、なんとなく空を見上げる。炎が燃え盛るような夕焼けが、そこには広がっている。ふと、私は結構前に葡萄と一緒にした花火を思い出す。
『私ね、火って好きなんだ』
そう言った。そして、その理由は、全てを無かったことにしてくれそうだから。全てを消し炭にしてくれるから。
なら、私の今までの人生も燃やしてしまえば、全てなかったことにできるんじゃないだろうか。馬鹿みたいな失態も、愛情依存だった私の過去も、同じ血が流れているとは思いたくない両親の教育も全て。
そして、その過去の汚点の全てが育まれた場所は、ここだ。
……何を馬鹿なことを考えているのだろう。冷静になれ。理性がそう叫んでいた。だけど、私は今でも発作中で、暴走する頭で部屋にあるものを見渡す。
母さんが凹ましたテーブルの上には、思い出したくない過去に溢れた卒アルが乗っている。賃貸なのに穴の開いた壁。無茶苦茶言われて、言い返す気力があった時に開いたもの。中学一年生の時ぐらいのものだったと思う。
忌まわしい仏壇。文章もろくに読めないのに買った宗教関連の本。タイトルには天動説とある。ママのクローゼットを開けてみる。いくらしたのって感じの数珠に、歳考えろよって言いたくなる派手なドレス。一番上段には宗教で買い置きした成分表示のない洗剤やシャンプーにリンス。冷蔵庫にあるママの飲み残しの、腐ったコンブ茶。
私を取り巻いていたもの。私に影響を与えていたもの。それを一度すべてリセットすることが出来たら。無かったことに出来たら。そうなったら、私が積み重ねることができたものも無くなるのか。だとしても。
今まで積み重ねてしまったものを含めたら、あたらしいわたしの方が良い。形作られた私、失敗作になってしまった私。葡萄を傷付ける私。どうせ子どもを虐待して、下手したら殺すであろう私。
そうなったのは、全て私の過去に起因する。プラスマイナスで言えば、マイナス値の方が圧倒的に高い、私の人生経験に起因する。
なら、それを取り消すためにはまず色濃く残った私の場所を、焼け野原にしよう。
そう決意してからは、早かった。私の家に灯油とかいう便利なものは無かったから、リビングにあった油をママが愛していた仏壇にぶっかける。安っぽい金色のそれに油が勢いよく掛かっていく。火は、仏壇の傍にある線香に点ける為の着火ライターがある。
とんでもないことをしようとしている自覚はあった。もしかしたら、この火事が原因で、川崎市全域が大火事になる可能性だってあるかもしれない。
だけど、それぐらいとんでもないことをすれば、私は変われる。あたらしい私になれる。今までの過去記憶人生経験全てを殻にして、進化できる。
生まれ変わるのだ。私は。
そうすれば葡萄の赤ちゃんだって、今度は産むことができるかも?
そして、私は火をつけた。火は勢いよく油を燃やし、ママが愛していたカルトから買った仏壇を台無しに、灰にしていく。それを眺めていると、今までの憎しみが全て燃えてなくなるようで、せいせいする。煙のせいで、少しむせた。私の部屋にある写真ぐらいは持っていこうか、そう思ったけど。
嬉しかった過去も、私の一部だ。あたらしい自分には不必要な、私の大切な一部。
なら、それすらも灰にしなければならない。私は自分のスマホを燃え盛る炎の中に投げ入れる。これで私が持っている過去は、全て焼失することになる。これで残るのは、葡萄と一緒に暮らしてからの記憶だけ……。




