34
「ねぇ、葡萄……」
「……なんですか?」
「本当にごめんね。葡萄が必死に考えてくれたのに、私のせいで全部台無しにしちゃった」
「いやそれはこっちも悪かったので。子どもを作るってことの意味を、僕はちゃんと考えていなかったなって……」
同じベッドで手だけを繋いで、僕は居たたまれないその思いをどうにか吐き出す。この感情は後悔だろうか。悔やめば、どうにかなるとでも?
「葡萄は悪くないよ。だって、葡萄は心を病んでる私を気遣って、提案してくれたんでしょ」
「……それはそうですけど」
「なら、やっぱり私のせいなんだよ。この期に及んで、産まれてくる子のことを考えてしまうような、私のせい」
美生さんの癖だから、彼女は自分のことを責め続ける。それに余計、悲痛な気持ちにさせられる僕は、どんな言葉をかけてみたらいいのだろう。何を言っても気休め以上にはならない気がして、僕は口を噤む。
『ごめん葡萄。やっぱりやめよ。こんなの、子どものことを考えたら絶対すべきじゃない』
『確かに、私達はいいかもしれない。それでも、産まれてくる子は私達しかいない世界でどう生きていくの? 仮にちゃんと育てられても、歳を取って私達が死んだらどうするの?』
『兄弟とか姉妹とか、そんな単純な話じゃないでしょ。私達は、お互いを愛せるからまだいい。だけど、子どもたちは、一体誰と愛し合うの?』
『私はね、自分たちは被害者だと思っている。でも、こんな状況で産んだらさ、それは被害者をさらに増やすことと同じじゃない? それも、私達のエゴでさ』
『葡萄は誓えるの? 産まれてくる子を絶対に幸せにできるって』
『それが出来ないのに、子どもなんて産むべきじゃないと思う』
ここまで言われてなお「それでも」とは、さすがに言えなかった。結局僕は、子どもを道具としてしか見なしていなかったのだ。僕には自分の子を思う能力が無かった。親としての素質が無かった。その事に、彼女はいつから気付いていたのだろう。
その唐突に突きつけられた真理はまるで、僕の頭の悪さを、僕の人間としての未熟さを浮き彫りにしたようで、焼けたくなった。恥ずかしさで、罪悪感で。
でも、これから先、どうやって生きようか。
いっそもう、こんな暮らしなら終わってみるか。
なんて、そんな勇気などないくせに。
きっと、一人だけの夜ならそう叫びだしていたと思う。だけど、隣には美生さんがいる。だから、理性で我慢する。むしろ、彼女が居るから理性を捨てられないのか?
ふと、美生さんが枕元にあったスマホを手に伸ばした。そして、「あ」と声を漏らす。
「……どうしました?」
「なっちゃった、誕生日」
そう言って見せてきた画面では、確かに深夜の零時を少し過ぎていた。
「最悪な誕生日だ」
「……」
「死にたい」
「美生さん」
「死にたい」
「美生さんってば」
「ねぇ、葡萄はどんな風に死にたい?」
「落ち着いてください」
「私はね、焼死がいいな。焼死が一番苦しいらしいから。それに、火って全部を消してくれそうな感じがするでしょ」
「美生さん、落ち着いてってば!」
「やめて、大声出さないで! ママみたいなこと、しないで!」
そう錯乱して、落武者みたいに血迷った目で暴れようとしていたから、なんとか押さえつける。生活は苦しむために、藻掻くためにあるものではないはずなのに、どうしてこうなっているのだろう。引っ掻かれてジンジンと痛む右腕。蹴りが当たって内出血しているであろう右足のふくらはぎ。
そうやって暴れても、いつも通り五分もすれば落ち着いて、ごめんごめんと泣きじゃくっている。僕もいつも通り「大丈夫ですよ」と答えて、彼女の肩を抱く。いつも通り落ち着かせて、いつも通り気休めの言葉をかけていつも通り……。
いつまで、こんな生活が続くのだろう。死にたいは逃げたいと同義だって、父さんの小説が言っていた。でも、逃げ場がない死にたいは、どう受け止めてあげたらいいのだろう。
神様。見ていますか。これ以上、どう生きたらいいですか。
神様、見ているんだろう。これ以上、どうしろっていうんだ。
その時、さっきまで泣いていたはずの美生さんが、ぼそっと言った。
「……ねぇ、葡萄」
「……なんですか?」
「……誕生日プレゼント、ちょうだいよ」
「……今ですか?」
「……うん」
もはや、思考を巡らすのも面倒で、僕は分かりましたと立ち上がり、自分の部屋に向かう。美生さんもとことこと後ろをついてくる。明かりを点けて、自分の机の上に置かれているそれを手に取った。美生さんの目が、驚いたように丸くなる。
そして、ホワイトのケースに包まれたそれを、彼女の前に捧げる。
「……これって」
「開けてみてください」
「……分かった」
彼女は一度深呼吸した後、覚悟を決めたみたいにそれを開ける。そこにあるのは、指輪。彼女の為にサイズを測り、見繕ったマリッジリング。
「……やっぱり、指輪だ」
「サイズもぴったりなやつ、探してきたんで。ちょっと付けてみてください。薬指に」
「……え」
「美生さん、愛しています。結婚してください」
特に覚悟は、いらなかった。もっと緊張すると思っていたプロポーズの言葉は、すらすらと流れる水のように紡げた。
もしかしてそれはもう、僕に失うものが無い故だろうか。彼女はその端正で神秘的な顔をぽかんとさせ。
「これ、プロローズか」
と、どこか現実を受け入れられていないような、感情の無い声で言った。
同時に目元から、きらめきのような涙が一滴、垂れる。
そこから枷が外れて洪水のように泣き崩れるものだから、僕まで慌てる。
「……大丈夫ですか?」
「いや、うん、だいじょ……大丈夫。嬉しすぎて、溢れちゃっただけだから」
「なら、いいですけど」
「うん、嬉しい。ありがとう。でも、自分がまだこんなに嬉しがれる感情があったなんて、知らなかった」
「……なら、良かったです」
「さっきまであんなに死にたかったのに、私、躁鬱みたいだ」
その言葉には頷かないでおいた。きっとそうだろうと思うから。
「驚いたな。これ、サプライズってやつ? 葡萄もこういうの、出来るんだ」
「……まぁ、一応」
「付けていいんだよね、これ」
「ええ。ぜひ」
そう答えると、美生さんはそのローズゴールドを慎重に取り出して、左手の薬指に入れる。
赤くなった目でそれを付けた彼女は、女神にように神秘的だった。見せつけながら淡く微笑むその眩さに、虜になる。
「どう、葡萄。似合ってる?」
「はい。とっても。とっておきを選んだ甲斐がありました」
「そっか。うん、ありがとう葡萄。こんな私に。でも、結婚するなら、私も葡萄の指輪を選ばないとね」
「結婚、してくれるんですか」
「……うん。といっても、この暮らしだから。もうしているみたいなものだけど」
そう美生さんは感涙したまま、「本当にありがとう」と弾けた笑みを浮かべた。
「ねぇ、葡萄。明日、私の実家まで運転してくれる?」
そして、二人でベッドで眠りに着こうとしていた時、ぼそりと美生さんは呟いた。その言葉を口にした彼女の表情は、何か覚悟を絞り出したみたいに強張っている。
「分かりました。……お母さんに報告ですか?」
「うん、一応ね。あんなでも、一応は私の母親だから」
「分かりました。じゃあ、明日挨拶しに行きましょう」
そう頷いたのに、美生さんは「お願い」と相槌を打った後、重々しくため息をついていた。その反応を見て、なんか無理してることは察する。
「あの」
「なに?」
「……無理して行かなくていいんじゃないですか?」
「無理してでも、結婚するんだから挨拶ぐらいはね」
「そういうものですか?」
「うん。そういう礼儀は大切にしたいんだ」
「……分かりました」
……まぁ、そこまで言うのなら従うほかない。僕はそう相槌を打って、明日着ていく服を思案する。スーツなんて持っていないから、制服にしよう。そう思って、眠りについた。




