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美生さんが自殺する夢を見た。
ライブハウスで目が覚めた時、僕は凄い量の汗をかいていて、シャツもびっしょりと濡れていた。寒気が止まらなくて、なのに隣ではすやすや寝息を立てて彼女が眠っている。
それに現実感が沸かなくて、彼女のその身体に触れてみる。確かな体温を感じた。生きている証。夢みたいに、トイレのドアノブを使ってロープで首を括ってなんていなかった。
ひとまず顔でも洗うか、と荒くなっている呼吸を落ち着かせる。洗面所で顔を洗い、青ざめた顔をしている自分の顔を見て、ため息をつく。落ち着け、美生さんは死んでなんかいない。冷たい水で顔を洗い、タオルが無いから着ているシャツでそれを拭いた。
そして、朝食でも取ってくるかとライブハウスを出た。時刻はまだ早朝で、お日さまは優しい日差しで出迎えてくれる。今日もまた暑くなるだろうかと、昨日行ったコンビニがある方向へ歩く。
その間、どうしても考えてしまうのはさっきの夢のことだった。美生さんが首を吊る夢を見たこと。
そこには、確かなリアリティがあった。太い縄が彼女の首元に巻き付いて、どこも見ていない意思のない瞳が、四十五度でフローニングを見つめていた。その股下には失禁したと思われる水溜りが出来ていて。
応急措置しようとしても、無駄だった。心臓も止まり脈もなく、彼女はすでに体温を失っていた。
そんな彼女を見て、僕は泣いていたのだっけ。そこまではよく、覚えていない。
そして、彼女は夢と同じになりたいと思っている。死にたいと思っている。それを言葉として直接聞いたのは、昨日が初めてだった。
つまり、それぐらい彼女はすでに追い込まれている。こんな暮らしだ。無理もないことなのは分かっている。
だけど、もし彼女が死んでしまったら、こんな世界で僕は一人きりで生きられる?
……無理だと思った。想像しただけで、吐きたくなってくる。なら、どうにかしなければならない。彼女の自殺願望や希死念慮。
それを止める術は、それを止める枷は一体どこにあるのだろう。
そして僕はふと、この前一緒に花火をした時の美生さんの言葉を思い出す。
『もしかしたら命よりも大事なものがあれば、生きていたいと思えるのかもしれない』
確かに、彼女はそう言っていた。そんな彼女にとっての光を示唆するものを、僕は想像してみる。
『そんなもの、一つしかないじゃない』
また、幻聴がした。今度は母さんの声だった。僕のことを身重になってまで、帝王切開だったからお腹を切り裂いてまで産んでくれた、母さんの声。
『私にとって、いや私たちにとって命より大事なものなんて、一つしかないでしょ』
『誰、なんて分かってるくせに聞くの、良くない癖よ』
僕は自分で理解しているのだろうか。これは、幻聴でしかないのだと。
ただ、自分が言って欲しい言葉を、誰かに吐いてほしいだけだと。
『でもこんなのね、ありふれた言葉だし、ありふれた感情なの。大概の親が子に思うことなんて』
『美生さんの母親だってきっと、彼女に意地悪したかったわけじゃないのよ。ただ、精神が未熟だったからどう生きたらいいか、どう接したらいいのか分からなかっただけ』
『会ったこともないけど、断言できる。彼女だって、適切に愛したかったのよ、わが子を。ちゃんと幸せを祈っていたの』
『つまり親にとって子どもというものはね、そういう存在なの』
『光なの、まばゆいほどの』
そしてその日、下北沢からの帰り道。車内での会話。
「僕、考えていたんです。美生さんが『命より大事なものがあれば』と言ってたことを」
「……それがどうかしたの?」
「こんな世界で、新しく『命より大事なもの』を作る方法なんて、一つしかないんじゃないかと」
「……もしかして、子どもを作ろうとか考えているの?」
「……はい」
「……それも、神の意志?」
「別に、これはそういうんじゃないです。単純に、僕たちには今何もないから、守るものが無いからこんな風になっているんじゃないかと」
「つまり、守るものがあれば、私も死にたくならないんじゃないかってこと?」
「少なからず、今よりは」
そう答えると、美生さんは考え込むように悩ましい顔で口を閉ざした。僕はその横顔を見る。クレオパトラ、楊貴妃、小野小町を越える美貌がそこにはある。彼女と作る赤ちゃんは一体、どんな容姿で産まれるのだろう。
「分かった。ちょっと考えさせて」
「了解しました。いくらでも待ちます」
結局、出てきた言葉は先延ばしだった。まぁ、それでもいい。どうせ時間など、いくらでもあるのだし。
「あと、美生さん。そろそろ誕生日ですけど、何か欲しいものとかありますか?」
「……誕生日? そっか、私もうすぐ誕生日なんだ」
「あと、一週間後ですね」
「言われて思い出した。ちょっと前までは、葡萄が誕生日を知らなかっただけで怒っていたのにね」
そういえば、そんなこともあった。あの頃のような、誕生日を覚えてないなんて信じられない! とぷりぷり怒っていた彼女の面影は、もうあんまりない。佇まいも触ったら壊れてしまいそうなほど、儚くなった。
「欲しいもの……。うーん、なんだろ。愛とか?」
「まだ、足りてないです?」
「いや、足りてるか……。なら、希望?」
「……もっと具体的だとありがたいんですけど」
「うーん……。何でも手に入るけど、本当に欲しいものは何にも手に届かないからなぁ。考えておくよ。
だから葡萄も、考えておいて」




