26
美生さんがまた手首を切った。
そのまたが何回目を表すのかは、僕には分からない。美生さんが入浴し終えた風呂場に入ってみると、血生臭かったことが何回かあった。目撃はしなかったけど、夏でも長袖しか着なくなった彼女の手首の傷跡が増えていることは、察していた。
僕はそれに踏み込めなかった。長すぎる風呂の後、いつものように平然を装ってリビングでドラマを見ている彼女のことを、複雑な気持ちで眺めていた。
どうして、彼女は手首を切るのだろう。いや、どういう気持ちになれば、剃刀を手首に当てたいと思うのだろう。僕と美生さんは何が違う? 何が違うから僕の手首はとても綺麗で、彼女のは傷まみれになっている?
「……葡萄、さっきはごめん、取り乱して」
「大丈夫ですよ」いつものことなので、とは言わないでおく。
手当てを終えた後、僕等はソファーで座っている。美生さんは僕にもたれ掛かって、頭を僕の肩に乗せていた。その間、僕は思い出していた。
さっき洗面所で、手首にぐるぐると包帯を巻いていた彼女のことを。かける言葉を、間違えたことを。
『……美生さん、何してるんですか?』
『こ、これはその』
『……もうしないと、言っていませんでしたっけ?』
なんで、そんな風に問い詰めてしまったのだろう。なんて、後悔が頭の中をよぎる。ただ、優しい言葉を掛けるだけで良かったのに。
それが出来なかったから、美生さんの感情は破裂した。
『だって、仕方ないじゃん! こうすると、落ち着くんだから!!』
そして、消毒液のボトルが飛んできた。……傍にあった剃刀が飛んでこなかったのは、まだ彼女に理性が残っていた証拠だと思う。
そして、なんとか宥めて落ち付かせて、今に至る。
静かだった。テレビも音楽も何もつけていないから。彼女の体温と息づかいだけを感じる。
「ねぇ、葡萄」
「……なんですか?」
「私を殴ってほしい」
「……何を言っているんですか?」
「だって、私、悪い子したから。それなのに何もせず許されるなんて、逆に不安になる」
「いや、落ち着いてくださいって……」
彼女は、人の肩にもたれかかりながら一体何を言っているんだろう。また理解が追い付かなくて、きっと僕は困惑の表情を浮かべていることだろう。
なのに、彼女はぽつぽつと言葉を続ける。
「逆に不安になるんだ。約束を破って、癇癪を起こして、葡萄に迷惑を掛けて……。なのに、叩かれないなんて」
「……叩かれたことがあるんですか?」
「うん、ママに、何度も」
「……」
「あの人も自分の機嫌をコントロールできなくて、よく私に当たってたの。一度大ゲンカしてから、私にあんまり構うことはなくなったけど……」
「……そうなんですね」
彼女のその告白に、僕はただ曖昧な返事をすることしかできなかった。知らなかったその過去は割れたガラスみたいで、触った瞬間に突き刺さるみたいな痛みがある。
だけど思い返してみたら、彼女は自分の家族の話をほとんどしてこなかった。真夜中のブルースカイの話はいくらでもしていたのに……。
「嫌いだったんだ。あの人のこと」
「叩くから……ですか?」
「それもあるけど、変な宗教に入信したり、それを私にまで押し付けてくるし……。でも、一番はそれじゃないんだ」
「……はい」
「一番は私も情緒不安定で時々癇癪を起こしちゃって、私もママの子どもなんだなって思い知らされるから。似てるんだ、私達。それが一番嫌い。だから、ずっと離れたかった。実はね、この世界に来て初めの頃、ちょっと安心してたんだ。もう、ママに会わずに済むんだなって」
「……」
「私さ、ずっとママの居ない世界で生きたいなって思っていた。言うなれば、願いが叶ったってことなのかもしれない。こんな形で実現するとは思わなかったけど……」
「それは、そうですね」
「だから、葡萄、本当にごめん」
「……なにがですか?」
「きっと、全部私のせいなんだよ。この世界に二人で閉じ込められたのは、私がママと離れたいと願ったから」
「いや、そんなわけない」
そう強く言い切る。だってこれは、神様の意思なのだから。
「……そうかな?」
「そうですよ」
「……そうだよね、考えてみればそんなのあり得ない。きっと、私が私を責めたかったから、そう思い込んでいるだけ」
「どうして、そんなに自分を責めたがるんですか?」
思わず、尋ねてしまった。でも、ずっと気になっていたことだった。どうして彼女は自傷行為をやめることができないんだろう。原因が分からなければ、結果を変えられない。
「……どうしてって言われても、そういう風に生きてきたからとしか」
「手首を切る行為も、ですか……?」
「……あれは、なんというか。ぴったりになりたいからするんだ」
「ぴったり、ですか?」
「うん。なんというか、自分の身体を傷つけることで、自分の価値と身体と心を一緒のところに置いていけるような。すごく、ふさわしい感じがするんだ。もしくは、私が手首から血を流している自分こそが正しい、そういう生き方がふさわしいと思っているから、やりたいのかもしれない」
「そんなの、ふさわしくないですよ」
「でも、自分ではそうは思えない。だって、私は私のことが嫌い。ママにそっくりな、私が嫌い」
「……一体、どんな人なんですか? お母さんは」
「知りたい……?」
「はい。美生さんが良ければですけど」
「……今まで、唯ぐらいにしか話したことなかったけど、分かった。でも、一つだけ約束してくれる?」
「何ですか?」
「引かないでね」
そして美生さんは、ぽつりぽつりと話し出す。




