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 けれども。


 彼女は今、ヤドンの人形を抱きしめながら眠っている。さっきまで、手首から血を流して。だからその血を失った分、身体に疲労を覚えていたのかもしれない。


 僕は彼女の黒髪を撫でながら、会った時よりずいぶん髪が伸びたななんて、手首に巻かれたぐるぐるの包帯のことを見ないふりして思う。こんなことになるのなら、剃刀なんて風呂場に置かなきゃよかった。血はもう止まっただろうか。傷跡が残らないといいのだけど。


 彼女はぐっすりと寝息を立てている。裏腹、僕はやるせない気持ちでいっぱいで、ついため息がこぼれる。風呂場から悲鳴が聞こえて、駆け付けてみたら彼女の手首から大量の血が流れていた。剃刀が床に落ちていて、腕からは鮮血が垂れて、シャワーの水と一緒に下水溝へ流れていく。その真赤な血はなんだか、フィクションで描かれるひどく非現実的なものに思えた。


 そう思うことで、現実逃避していたかったのかもしれない。絆創膏でなんとかなるぐらいの、ちょっとの傷口ではなかった。蒼白の顔面で、彼女は深く息をして「葡萄、どうしよう」なんて彼女は言っていた。ひとまずタオルで傷口を巻いて、急いで救急セットを探した。


『自分でも、どうしてこんなことをしたのか分からない』


『ぼーっとしてたんだ。ただ、ぼーっとしてた。何にも考えてなかった。だけど、その時、剃刀が目に付いた』


『冗談のつもりだった。アイドルの知り合いがやってるのを思い出して、ふざけて手首に近づけてみただけだった』


『そしたら、ちょっと興味が沸いた。少しだけ力を入れてみたらどうなるだろうって。そしたら、痛くすぐったくて気持ちよかった』


『そして、思ったんだ。もっと力を入れてみたらどうなるだろう。勢いを付けて、切ってみたらどうなるだろうって』


『だから、心配しないで。私も落ち着いたし、ただ衝動的にやっただけだから。もうしない、誓うよ。絶対にしない。だから、安心して』


 安心できるか、と思う。今まで、風呂場から中々戻ってこないことはあったけど、自傷行為に走ったのは今回が初めてのはずだ。……おそらくは。


 真夜中のブルースカイが解散すると知ってから、二週間とちょっと。あれから、美生さんのメンタルはさらに不安定になって、精神薬を服用する回数も明らかに増えた。最近では眠れないからと睡眠薬も一緒に服用している。


 つい、ため息がこぼれる。あの日から、美生さんの心はずっと不安定だ。明るく振る舞う日もあれば、感情が壊れたみたいに泣き喚く日もある。それに連なって、僕の心も疲弊することが増えた。……美生さんは精神病を抱えているのだろうか。


 正直、やっていきにくい。怒って我に返って謝ってくるのも泣きだすのも、はっきり言ってだるい。それでも、それはそれほど彼女が追い込まれている証左なのだ。出会った当初の彼女は凛々しくて、堂々としていた。その頃のことを思い出して、少し懐かしくなる。


 そんな彼女が、ここまで弱々しくなるなんて。


 僕は彼女の健やかな寝顔を眺める。整えられた眉に、目、鼻、口など全てのパーツが意図的に位置づけられたように、在る。誰が見ても可愛いし、誰が見ても美人だと思うような完成形の美。


 だけど、だから愛おしいんじゃない。僕はあなたの心を好きになったのだ。 


『本当に? ここまで変わってしまったとしても?』


 そう声が聞こえた。聞き覚えのある声。でも、美生さんの声ではない。辺りを見渡しても、当然美生さん以外居ない。


 それはこの世界が今二人しかいない以上、間違いなく幻聴だった。だけど、こんなこと初めてのはずなのに、どうしてか戸惑いはなかった。まるで電源を入れたらテレビが映るように、当たり前のこととして僕はその声を聞いていた。


 声はまだ聞こえる。


『今の葡萄くんの愛はさ、きっと二人きりだから、彼女を愛さなきゃいけないという義務感から産まれてるものなんじゃないかな。私と付き合いだした時も、彼女だから愛さなきゃいけない、きっとそんな義務感で私の手を握っていたんでしょう?』


 幻聴はまだ続く。△△の、アナウンサーのような透き通る声で。聞き逃すことを許さないとでも言いたげな、抑揚のしっかりした声で。


『やっぱり、美生さんはそこまで強くなかったね。光無しで生きられるほどでは、決してなかった』


『彼女を助けられるのは、きっと葡萄くんだけ。その方法が信仰しか思い浮かばいのは、些か視野が狭すぎるとも思うけど』


 なら、他に何があるというのだろう。その答えを僕は知りたかったのだけど、幻聴は教えてくれない。これ以上、僕は一体何に溺れればいい?


『人生で何かに縋ることは大切なことだよ。それが音楽でも、美生さんでも、神様でも、お酒でも。でもそれが、あなたを根本的な絶望から救い出すことは決してない』


『だからこそ、賭けてあげる。このままじゃ、これからも続くあなたたちの物語の結末は、不幸な破滅しかないってこと』


『そうなりたくないのなら、何かを決定的に変えるしかないんだ。それだけが、あなたを救う』

『そのために、もっと苦しんで。そして考えて。頭がおかしくなってしまうほど。あの子の代わりに、現実と目線を合わせて苦しむの』


『だから頑張って、葡萄!』


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