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今日も河川敷の舗装路に、二人分だけの足音が鳴る。
隣で走る彼女の、テンポのよい呼吸。吸う吸う吐く吐く、のリズムで走ることが大事だと彼女は話していたけど、マラソンコースの終盤間際では棒になりかけの足を必死に動かすだけで手一杯だ。
「葡萄? もうへばるの?」
「……も、もうっ、へばっていいなら」
「なっさけないな。ほら、あとちょっとだから」
そう美生さんに先行されかけながら、女子に負けてたまるかと必死に彼女に並びかける。するとシャンプーだかボディソープだか分からないけど彼女の甘い、柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。体力は尽きかけのはずなのに、妙に意識してしまう。
すると、いつもゴール地点にしている看板が見えた。
僕はさっきの悶々を消し飛ばすように、最後の力を振り絞ってスプリントを開始する。隣で走っていた美生さんが、「ちょっと!?」と焦ったように声を出すが気にしない。運動会の選抜リレーで全力疾走するみたいに駆け抜けて。
あるはずもないゴールテープを切った。
そして、ぜぇぜぇと死にかけの体で呼吸を整えながら歩き、心臓の脈を落ち着かせる。本音を言えばすぐ草むらに寝っ転がりたかったけど、そんな馬鹿みたいな行動で心停止なんてしたら洒落にならない。
遅れてゴールした美生さんが、未だに息を切らしている僕をしらーっとした目つきで見て。
「アホ」
「いやっ、はぁ、なんかっ、はぁ、こういう時ぃ、ダッシュしたく、はぁ、なりません?」
「なりません。……朝のトレーニングなんだし、そんな必死にならなくてもいいのに」
「いやっ、はぁ、やるからには本気でっ」
「それはいい心がけだ。まぁ、最後のダッシュは無駄だけど」
そう美生さんが辛辣に吐き捨てたと思うと、今度は僕の頭をポンポンと優しく叩いて。
「でも、今日も頑張ったね。偉い偉い」
そう素直に褒められると、くすぐったい感じがして、それでも僕はその柔らかい手に甘える。心地がいいから。
今日は六月三日。僕らがこの世界に取り残されて、大体一か月ちょっと。
その間、僕らの状況は何一つとして変わることが無かった。僕と美生さん以外誰も居ない世界で季節は移ろい、紫陽花が綺麗な時期になった。ニュースによれば、もうじき梅雨が始まるらしい。
美生さんが用意してくれたポカリスエットを飲みながら、動物の鳴き声も無い、車の音もしない世界に、随分と慣れたなと思う。誰も居ない世界は、本当に音がしない。音というものは動物が立てているものだと、この世界になってから意識することが増えた。
草木が揺れている。今日は少し、風が騒がしい。美生さんが口を付けているペットボトルをなんとなく眺める。ゴクゴクと透明な液体が彼女の喉を通っていく。その音を聞く。
「どうしたの?」
「……いや、今日も疲れたなって」
「偉いよ、毎日私と走り込みして」
そう美生さんは答えると、また優しく頭をなでなでしてくれた。なんだか、犬にでもなった気分だ。……犬や猫も、最近全く撫でていない。△△は、動物園に行くのが好きだった。元気にしているだろうかと、ふと思う。△△の、美人とまでは言えないけれど愛嬌のある顔が不意に浮かぶ。
「……どうしたの?」
「いや、今日も可愛いなって……」
「何当たり前のこと言ってるの、もう」
なんて、他の女のことを考えていることがばれたら、叱られるじゃ済まない。一日は拗ねて、面倒くさいことになる。五月なのに夏日だなんて詐称だと言いたくなるような日々を乗り越えて、僕らはそういう関係になった。
だから、もう△△のことを思い出して、罪悪感を覚えるのも止めたかった。
そして、午後になったら美生さんはダンスレッスンだ。開けっぱなしにされた窓の先にある庭から、ポップで明るい曲調の、もはや聞き馴染んだアイドルソングが聴こえてくる。美生さんはそれに合わせてダンスを踊る。本人曰く、手先、足先まで意識して。
美生さんと同棲を始めてから、僕の家の庭は彼女のダンススタジオと化していた。僕の日課はそれを眺める事。視線が合った彼女が、僕に可憐なウインクをしてくる。不覚にもドキリとして、また僕は射止められたのだと悟る。
……にしても、ろくもまぁこんな状況下でずっとレッスンなんか続けられるなと思う。彼女のアイドルグループのワンマンライブは三日前に終わっている。息を切らしながらシャツを汗で濡らす意味など、本来はないはずなのに。
いや、むしろこうやってレッスンを続けることで、元の世界との関係を絶たないようにしているのかもしれない。まだ関係性が浅かった時、こんな状況で練習を続けるのは辛くないかと尋ねたことはある。その時の彼女の返答は、こうだった。
『レッスンしている時だけは、なんか落ち着くから』
きっと彼女にとっての練習は、儀式なのだ。いつ戻ってもいいように。戻ることを諦めないように。そう思うための、儀式。期待を持ち続けるための儀式。
そう感じるのは、僕も違うものに縋っているから?




