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「じゃあ、始めようか」


「……は、はい」


 そう言って、美生さんがからからと缶スプレーを振った。僕は本気でやるのか……と思いながら、机に置いていた青色のスプレーを握る。彼女と僕は汚れないために橙色(だいだいいろ)の合羽を着ている。つまり、これから僕等はそういう行為をする。


 そして、彼女が両手に持ったスプレーを黒板の壁に噴射した。


「おお、意外と勢いがあるね……」


 そう感嘆しながら、彼女はまるでダンスを踊るみたいに黒板の端から端までスプレーを吹きかけていく。その激しいシンナーの香りで、思わず鼻を鳴らした。


「どうしたの葡萄くん」


「……いや、臭いがきついなって」


「それぐらい我慢しなよ、男の子でしょ」


「関係ありますか、それ……」


 そうぼやきながら、僕は小さく咳をする。変な化学物質でも出ているのか、なんとなく目がちかちかしてくる。


 なのに、美生さんは平然とした様子で今度はフローリングの床にスプレーを吹きかけていく。


「ほら、葡萄くんもやりなよ」


「は、はい」


 なんとなく、不良のお姉さんに煙草を勧められている気分だ。仕方ない、そう内心で呟きながら僕もスプレーを噴射した。教壇に、HEIPなんて書いてみる。美生さんが噴射したスプレーと混ざって、僕の書いた文字は少し見苦しい。


 だけど、この万能感に従うのは素直に楽しかった。


 今度は教室全体だと、美生さんは僕に笑顔を向けてまた赤のスプレーを噴射する。それは窓にかかり、床に垂れ、机を汚す。教室が、カラー塗装によりカラフルな暴力を振るわれる。そのまま、教科書などが入れられたままのロッカーへ向かい、今度は黄色のスプレーを吹きかけていた。


「……やりすぎでは?」


「いや、この学校は唯を追い出したんだから、やりすぎなんて言葉は無いよ」


「そ、そうですか」


「ねぇ、葡萄くんはこれ、ニュースになると思う?」


「うーん。……ニュースになるかは分からないですけど、間違いなくクラスメイトの誰かはネットで呟くんじゃないですか」


「だといいよねぇ……」


 そう美生さんはぼやくけど、正直その可能性は望み薄だということはきっとお互い気づいている。


 それでも一応、僕等は実験の体でこの教室を汚している。僕らがしていることが、あっちの世界でも反映されているのか、それを確かめるための実験。お店で寿司やら弁当を盗んでも騒ぎにはならないけど、ここまでやればニュースになる可能性は大いにある。……本来だったらだけど。


 でも、恐らく意味はない。だって、僕等のネット配信が、僕等のSNSの返信が、向こうの世界に届きはしないのだから。だから、実験と言う理由は建前だ。


 本音は、美生さんの腹いせ。それ以外ない。着用していた雨具にまで飛び散った塗料を眺めて、それがまるで彼女の怒りそのもののようにも思う。


 これで少しは気が晴れましたか? とは聞かない。唯さんがこの学校に馴染めず、通信制に転校したことを知ったとき(唯さんのブログを漁って僕らはその情報に行き着いた)、美生さんは取り乱した。職員室の誰かの机は凹み、プリントは今も床に散乱したままだ。


『唯は中学校時代、不登校だったんだ。だから、頭が良いのにこんな高校に入学したの』


 そう疲れて座り込んだ美生さんは、散らかした職員室のなかでそう呟いていた。美生さんはきっと、この学校が嫌いだったのだと思う。


 そして一通りスプレーを噴射し終えて、僕等は今一度、教室を見渡す。


「……なんか、凄いことになってるね」


「こういう感じの地獄、ありそうですね……」


 まるでサイケな夢みたいになっている。なんとなく思い立って、美生さんと一緒に他の教室を覗いてからここに戻ると、まるで仮想空間にでも降り立ったかのような錯覚を抱いた。


 最後に記念に写真でも撮っておくかとスマホを取り出すと、美生さんが映りたそうにしていたので連写しておく。写真に慣れている人の、形の良い笑顔とピースだった。


「じゃあ、帰りますか」


「うん、そうだね。……ねぇ、葡萄くん」


「何ですか?」


「さっきは、ごめんね」


「……何がです?」


「なんかその、取り乱して……」


「……気にしてないですよ?」


「本当は……?」


「……怖かったです」


「ごめんって……本当に」


「まぁ、その……。あれだけ激高するほど唯さんのことが好きだと思えば……」


「……慰めてるの、それ?」


 そう問われると部分的にそうとしか言えないけれど、とにかくここでの目的は全て果たした。二人で校舎を歩きながら、美生さんは唐突に伸びをする。


「でも、これで目標が出来たよ。私たちは本当の本当に、はやく元の世界に戻らないとならない。私が居ないと唯は転校しちゃうし、葡萄くんは彼女が彼女じゃ無くなってしまう」


「……はい」


「それに、アイドル活動の方もね。もうすぐワンマンライブだし、ファンの人達もメンバーも……。私、リーダーだから。あまり心配させられないし」


「大事、なんですね」


「うん、私にとってあのアイドルグループが、真夜中のブルースカイが、世界の全てだったから」


「……」


 そう力強く言えるものが、果たして僕の人生に一つでもあっただろうか。家族に会いたい、友達に会いたい、彼女に会いたい……。取り戻したい生活は、もちろん僕にもある。


 だけど、彼女のようにただそれ一つを真剣に愛し、掛け替えのないものだと思い込めるもの。そんなもの僕にはきっと一つとして無い。


 そういう人生に、確かに僕は憧れがあった。僕には色々な趣味がある。ギターだって弾けるし、サッカーも好きだった。父さんが多趣味だったから、僕にはきっと他の人よりも何かを好きになる機会が多かった。


 だけど、その分誰かだけ、何かだけに神様のような信仰を抱けなかった。


 だから、羨ましかった。ライブの為に、ファンの為に帰るのだと堂々と宣言できる美生さんが。


「……いつでしたっけ、ライブの日」


「五月三十一日。ちょうど一か月後ぐらいかな」


 あと一か月、現状何の足掛かりも無い中で、その期間は短いのか長いのかも分からない。このまま、一生幽閉されることだってあるかもしれない。それでも、『無理だ、諦めろ』とは言わない。僕にもまだ、淡い期待は残されている。


 だから、まず言葉にしようと思った。お互いの気持ちを、重ね合うために。


「……絶対に帰りましょうね」


「……うん!」


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