代償
ふぅーっと、涼しい吐息を吹きかける。
大して強く吹いてないのに、燭台の炎は弱々しく消えてしまった。うすら立ち上る煙の儚い香りに、フィオナは満足げに微笑する。
「それじゃあ行きましょうか、ディオス」
従者に扉の閂を外させる。
素晴らしい復讐計画に、冷たいはずの心臓が高鳴って仕方がない。こんな薄汚い教会に長居は無用、ひとまずは我が愛するドレシアの街にでもおもむこうではないか。
脇に控えたディオスが、片手で扉を押し開ける──フィオナは反射的に目をすっと細めた。己が進みゆく悪の道を照らさんと、青白い月のまばゆさが差しこんでくると思ったからだ。
「あら?」
ところが、令嬢は首を傾げる。
月光りに満ち満ちていたはずの外は、打って変わって暗闇に染まっていた。開いた扉の前で、フィオナはまばたきをする。
「いやねぇ、せっかく人が前向きになったっていうのに。勝手に曇り空になるんじゃないわよ……」
天気が移ろいだのだと思った。その証拠に、不機嫌をあらわに外へ一歩踏み出してみれば、頭上から冷たい雫がボタボタ垂れてくる。
「つめたっ! もう、雨まで降ってくるなんて……」
令嬢は忌々しげに空を見上げる。
そして、彼女は硬直した。
なぜか。
ハッハッと、短い息づかいが聞こえる。見上げた先には白い三日月が……もとい、鋭利な牙を剥き出しにした獣の口があった。
闇のなかで、いくつかの眼が令嬢を見下ろしている。いくつか、なんて曖昧な表現をした理由は、片目がくり抜かれていたり、中途半端に垂れ下がる眼球があったり──それ以上に、眼を光らせた頭部そのものが複数あったからだ。
犬の頭部である。
それが四方八方乱雑に突き出した、巨体の化け物が目の前にいた。一つの犬頭がむせこめば、よだれの雨がボタボタとフィオナの頭にかかった。
「い゛や゛ぁああーッ!」
絶叫とともに、彼女は後ろへ引っくり返る。あわや倒れる寸前に、かたわらにいた従者がその背を抱き留めた。
令嬢の叫びに応じたか、犬の頭部たちも一斉に呪わしい獣の咆吼を放った。
──ウォォオォンッ!
ただでさえ変色した肌というのに、恐怖のあまりフィオナは青ざめた。なんということだろう、あれは墓場で自分を襲ってきた獰猛な野犬たちではないか。
どういう摂理かわからないが、犬たちは合体して一つの巨大な化け物と化したようだ。扉を開けたときに外が異様に暗かったのは、単に巨体が前を塞いでいただけであった。
化け物は長い腕らしきを、月夜に向かって振り上げた。
ディオスがとっさに反応して、フィオナを抱き留めたまま教会内へ飛び退いた。瞬間、振り下ろされた強靱な腕が扉をこっぱみじんに粉砕する。
「なっ、なっ……なんなのよっ、あれはッ!」
「幽鬼です」
錯乱する令嬢の耳に、憎らしいほど平静な声が伝う。フィオナが顔を振り向かせれば、澄ました鉄仮面があった。
「ゆ、ゆーき?」
「街で出会った魔を名乗る者から教わりました」
魔性曰く、あらゆるすべての命が、正しく死者の門をくぐって転生できるわけではない。
適切に弔われなかったもの、恨みや憎しみといった今生の執着に囚われているものは、死にきれない存在となってこの世に留まり続けるのだ。
「魂のみの幽体、また受肉が残ったもの──すべてを引っくるめて『幽鬼』と名付けられているようです」
「……わけがわからないわ」
「簡単に言うなら、いまのフィオナさまを指します」
「あんなのと一緒にしないでちょうだい!」
フィオナがわめくも、化け物の咆吼にかき消される。扉の壊れた入口から身をかがませて、複数の頭がこちらを覗いていた。
おぞましさに、令嬢は従者にしがみつく。
復讐計画で浮かれている場合ではない。逃げ道を化け物に塞がれてしまったのだ、絶対絶命のピンチである。
「フィオナさま、いかが致しますか?」
「…………」
「フィオナさま」
「……い、いかがもなにもないわよ。ここでわたしたちは終わり、終わったのよ……。あんなの相手に、いったいどうすればいいってのよぉ……」
絶望の深さに、フィオナはあきらめて瞼を閉じる。視界を閉ざしたぶん、いまにも化け物がじりじり近づいてくるような気がして、背筋が凍りついた。
「それとも……なにかしら。ディオスがどうにかしてくれるの? あんな怪物……あなたなら倒せるって──わたしに約束してくれるの?」
間伐入れずに、「御意」と返事が返ってきた。
瞼を開く前に、ディオスが体から離れた。
「ディオスッ!」
祭壇へ寄りかかりながら、フィオナは従者の名を叫んだ。
前へ勇み出た広い背中──彼は振り向くことなく、野犬たちの化け物の対峙する。
フィオナは、はっと気づいた。
ディオスの全身に、なにやら白い霧のようなものがまとわりついている。霧は彼の左右の手に集約しはじめ、秒も立たぬうちに霧散した。
いつの間にか、彼の左右の手には……見たこともない細身の剣が二刀、握られていた。
──あとは呆然と眺めているだけだった。
それほどに、戦闘は短く終わった。
伸びた最後の一頭の首を叩き落とすと、彼は対の剣を化け物の腹へと深く突き刺した。
天を割る咆吼ののち、怪物はもんどり打って地面へと沈んだ。とたん、元の野犬の群れに分裂し、彼らは墓場へと消え去っていった。
命令のとおり、怪物を始末し終えた彼はフィオナの前にかしづく。
頭を垂れた瞬間、仮面の紐が千切れた。
攻撃をかすめたときに傷ついたのだろう。冷たい音を立てて、鉄の仮面が床に落ちた。
「……!」
あらわになった目元に走る、横一閃の傷跡。
そして顔を上げたとき、そこに彼の黒い眼差しはなかった──瞳は白く濁っていた。
主を生き返らせるため、禁術に手を出した従者ディオス・シュス。
彼もまた、人ではなくなっていた。
不死の令嬢とおなじく、異形と化していた。
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