古びた小さな教会
フィオナはようやく歩を進めて、祭壇の前で立ち止まった。
裾を垂らした祭壇の敷き布は、おそらく元は深い青みに沈んでいたことだろう。いまでは古ぼけた色合いに変色し、気品がすっかり抜け落ちてしまっていた。
台座の上には忘れられたか、道具が置き去りにされている。三つ叉の燭台、分厚い教典、儀礼に使用する台付きの鏡──どれもが、時の移ろうままに朽ちかけていた。
「いやねぇ。手入れくらいしなさいよ……」
眉をひそめたのち、彼女は顎を上げて物言わぬ石像を見据えた。
こちらも塵の白粉をまとい、透明な蜘蛛の巣まで飾りつけている。
ただし、ほの暗い静寂のなかで一切の微動なしに佇む姿は、素直に美しいと思った。かえって、神秘性がより際立っているかのようにも感じた。
どの教会にも、決まってこの神の像が祀られている。その神聖が司るのは、『生きとし生けるもの、すべての魂の再生』と伝えられていた。
(儀礼の折に、人々は教会へと集うわ。
新しい命が生まれたのなら、この像の前で名付けを行って生誕を祝し……また死に別れがあれば、今度は祈りを捧げて故人を弔うの……)
いずれにしても、人の魂の生まれ変わりに関わりを持っている。
命の生と死をくり返して、すべての魂は循環する。
この身が尽きれば死者の国へと旅立ち、清き炎の浄化をもって、無垢なる魂は再びこの世に生まれ変わるのだ。
(昔、ばあやから教えてもらったわね……)
亡くなった母のこともあって、幼い頃は純真に死後を信じていた。だが、いまとなってはただの古臭い迷信にすぎないと、フィオナは思っている。
ちなみに、神が祝福する『生まれ変わり』には生死を含まない儀礼もある。
その最たるものが、婚礼の儀だ。結ばれた男女のめでたい門出を『人生の再生』と称して、この像の前で互いに誓いを──。
「──ッ!」
そのとき、フィオナは思い出した。
夢で見た記憶を──自身に降りかかった、恐ろしい悲劇のことを。
両手の指がとっさに、喉元を強く押さえつける。あの焼けつくような激痛がよみがえった気がして、反射的に激しく咳きこんだ。
膝がかくんと折れる。神の像の前でゆっくり身をかがめて、令嬢は繭のようにその場にうずくまった。
「あ、あれは夢じゃなかった……! そうよ、間違いないわッ! わたしは、たしかにあのとき──!」
体が小刻みに震えはじめて、フィオナは唇を強く噛みしめる。気を保とうと、血の味をもってして自身を叱咤した。
「ええ、そう……あのとき、わたしは……」
わたしは死んだ。
毒を飲まされて、絶命したはずである。
公爵家のご令息、エリオール・シルクスとの婚約を祝う華やかな会での出来事だった。
何者かが、彼の花嫁となるフィオナ・ベルベットのグラスに劇薬を仕込んだのだ。毒をあおった彼女はその場で事切れた──骸は棺に納められ、地中深くに埋められてしまったのである。
閉じられた闇の感触を思い出すと、いまにも気が狂いそうになる。
フィオナが深呼吸をくり返すも、唇からこぼれる吐息は依然として凍えていた。指先の感触もなんだか鈍く固いような気がして……本当に自身が血潮の通った人間なのか、大いに混乱してしまう。
それでも、しばし呼吸を整えたのちに、彼女はゆっくりと喉元から絡める指をほどいた。手は宙をさまよい、やがて膝の上に小さく丸まった。
「わたしは死んだ……この体がすべてを覚えているわ……」
毒の激痛も、倒れた衝撃も、一度は世を去って闇に消えかかっていた感覚も……。
(なのに、どうしてわたしは存在しているの?)
気怠いが、五体の感覚はある。
全身が氷のように冷え切ってはいるものの、腕も足もきちんと動かすことができる。視界だってはっきりしている。なによりも、こうやって思考を巡らせることが、意識が明確であると証明していた。
疑問の答えになりそうな痕跡を探して、フィオナはいま一度、周囲を念入りに見まわした。
わかるのは、ここが古びた教会のなか、ということだけだ。
もしや、ここが噂の死者の国なのか。
それとも、奇跡が起きたというのか。
(たしかな覚えが一つある……)
棺のなか、孤独な闇に身を横たえていたときだ。
あのとき、自身を納めた棺は土から掘り出された。そして、身を圧迫する重い蓋が退かれて……誰かの手が、自分を闇から引き上げてくれたのだ。
強く引き寄せられる、腕の感触。
光のなかで感じた温かさ、愛おしさ……。
「…………」
いつしか、体の震えは止まっていた。
フィオナは静かに立ち上がる。神の像に背を向けると、教会の入口──固く閉じられた鉄の両扉のほうを見やった。
「エリオール……」
感傷の糸に惹かれ、婚約者の名を口にする。
(……あなたに会いたい)
奇跡が起こったというのなら、叶えたい願いは一つだけだ。いますぐにでも、愛する者の腕のなかへ帰りたかった。
足早に扉へと向かう。
外側から施錠されているかもしれない。不安がよぎるも、試しに片手で軽く扉を押してみれば、ほのかに冷たい風が流れ出した。
フィオナは心のなかで強くうなずいた。
彼女は扉の前で両手をつくと、息を詰めて……ぐっと、腕に力をこめた──。
錆の悲鳴を上げながら、教会の扉を大きく開かれた。
とたん、吹き荒む冷たい外気が彼女を歓迎する。足元では踊るように、乾燥した落ち葉が転がってきた。
「……あら? せっかく人がこの世の終わりの風景を想像していたというのに……なによ、ごくありきたりな眺めじゃない」
胸をなで下ろし、令嬢は強がりを口にする。
扉を開けた先に広がっていたのは、青白い月明かりに照らされたのどかな夜の世界であった。
虫の音が鳴き、草木は風にそよいでいる。
もしも死者の国にいるのならば、外は見るに堪えない異形にあふれていたことだろう。律儀に身構えていただけあって、とんだ肩透かしであった。
「つまらないこと。……まぁ、いいわ」
気を取り直して、フィオナは外を見据えた。
扉の先、石畳の床の向こうには雑草が生い茂った地面が続いている。伸びた草に埋もれるように、飛び石も確認できた。
さらに遠くへと視線を向ければ、教会の土地を囲む鉄柵と、大きな外門が目に留まった。
かび臭い空気から一変、すがすがしい夜気を味わった令嬢は、軽やかに外へと足を踏み出すのであった。
▼気に入ったエピソードには、ぜひ【リアクション】をお願いします。執筆の励みになります!




