第7話「雨音とキス」
四月の終わり。天気予報を裏切るように、夕方から激しい雨が降り始めた。
会社の窓ガラスに打ちつける雨粒の音が、やけに耳に残る。
「うわ……傘、持ってない……」
午後9時。資料の作業を終えた悠真は、スマートフォンの画面に表示された【雷雨警報】の通知を見て、ため息をついた。
フロアの明かりはすでにほとんど落ちており、残っているのは、社長室のスリガラス越しに漏れるわずかな灯りのみ。
彼は一度、深く息をつき、意を決してその扉をノックした。
「……どうぞ」
凛とした声が返ってくる。だが、その声には少しだけ柔らかさが混じっていた。
「失礼します。まだお仕事中ですか?」
「ええ。こういう夜って、妙に集中できるの。……あなたも?」
「はい。でも、正直もう集中切れてました」
美咲は小さく微笑むと、彼の方をちらりと見た。
「帰れそう?」
「……雷雨警報が出てて。駅のほうも混雑してるみたいです」
「じゃあ、帰れないわね」
その言葉はどこか楽しげだった。
「……泊まっていく?」
「ここにですか?」
「ええ。社長室には簡易ベッドもあるし、シャワールームもある。……役員会議の徹夜明け用にね」
「……お邪魔にならないなら」
「なら、決まりね。――待ってて。お茶でも淹れるわ」
美咲が奥の棚へと歩いていく。
その後ろ姿を見つめながら、悠真の胸はまた高鳴っていた。
“社長”と“社員”――その境界が崩れた夜は、これで何度目になるだろうか。
だが、今夜は違う。
美咲の言葉や仕草が、どこか自然体だった。張りつめていた仮面が、ゆっくりと剥がれ落ちていくような――そんな感覚があった。
「はい。ホットミルクティー。今日は落ち着くのを選んでみた」
「ありがとうございます。……やっぱり、優しいですね」
「それは“社長”としてじゃなく、“私”として褒めてるのよね?」
「もちろん。“美咲さん”に、です」
ふっと目をそらした美咲の頬が、わずかに赤く染まる。
そのあと、ふたりはしばらく雨の音を聞きながら、互いの過去について語り合った。
両親のこと。
初めて失恋した話。
仕事で初めて挫折したときのこと。
「……そんな顔もするんですね、美咲さん」
「どんな顔?」
「“さみしさ”に耐えてる人の顔。……いつもは見せないのに」
「……見せたくなかったの。強くなければ、“社長”は務まらないって思ってた」
「でも、それだけじゃ疲れてしまいますよ」
「……ほんとに、ずるいわね。あなた」
「なにがですか?」
「何でもないって顔で、どんどん私の“奥”に入ってくる」
その声がかすれた瞬間――ふたりの視線が、吸い寄せられるように重なった。
言葉はいらなかった。
悠真が立ち上がり、美咲のすぐ目の前まで近づく。
「……キス、してもいいですか」
「もう……遅いわよ。聞く前に、その目が答えてた」
美咲の手がそっと伸び、彼の頬に触れる。
そして――
ふたりの唇が、深く重なった。
最初は静かな、優しいキス。
けれどすぐに、そこに“熱”が混じる。
「ん……っ……」
美咲の手が彼の胸元にしがみつき、悠真はその細い肩を強く抱きしめた。
互いの息が混じり合い、体温が溶け合う。
唇を重ね、舌先が触れ合い、さらに深く、熱く――貪るようなキスが続く。
社長室という理性の象徴のような場所で、ふたりは理性を手放していく。
「っ……だめ……こんな場所……」
「……じゃあ、止めますか?」
「……バカ」
また唇が重なる。
美咲の声が、ほんのかすれた甘い吐息へと変わっていく。
キスの最中に指が絡まり、ふたりの心が、唇を通して溶けていった。
ようやく唇が離れたとき、美咲は彼の胸に額を預けたまま、ぽつりと呟いた。
「……怖いのよ」
「何がですか」
「この気持ち。……全部あなたに渡したくなってしまいそうで」
「……なら、受け取らせてください」
「……本当に、優しいのね。……優しすぎて、ずるいくらいに」
それからしばらく、ふたりはソファに寄り添いながら、ただ静かに雨音を聞いていた。
社長室の時計が深夜を回る。
その夜――誰も知らないふたりの想いが、さらに深く、重く、絡まり合っていく。