表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/12

第6話「危うい距離」



――恋人ではない。でも、ただの社長と社員では、もういられない。


その境界線を、ふたりは何度も踏み越えていた。


だが、社内の空気は微妙だった。


「橘くん、最近ちょっと……社長と近くない?」


「え? そんなこと……」


「別に悪いとは言ってないよ。でも、目立つのは事実」


同じ部署の女性社員たちが交わす会話の中に、悠真の名前が頻繁に上がるようになっていた。


人事担当の白石恵もまた、ある日ふと、意味深な視線を悠真に向けて言った。


「社長室に、あなたが入っていく回数……正直、多いと思う。あの人が自分から何度も声をかけるなんて、珍しいのよ」


「……必要な業務の話です」


「本当に、“それだけ”? あの人は、誰にも弱みを見せない人よ。……それがあなたには見せてる気がして、少し怖いの」


白石の言葉は、まるで探りを入れるような、どこかに嫉妬をにじませたような響きを持っていた。


それでも悠真は、迷わなかった。


――彼女に触れたい。

――彼女のそばにいたい。

――どんな代償を払っても。


そしてその夜。


静まり返った社内に残っていたのは、悠真と、美咲――ふたりきりだった。


「資料、整理してるの? 手伝うわ」


「いえ……これは僕の仕事ですから」


「……でも、私の確認も必要な書類でしょ? だったら“共同作業”よ」


「そういうことなら……お願いします、“美咲さん”」


その名を呼んだ瞬間、美咲はわずかに頬を染めた。


社長室の隅。

ふたり並んで書類に目を通す中、手と手がふと触れる。


「あっ……」


「すみません、わざとじゃ――」


「……わざとだったら?」


「……はい、わざとです」


少しの沈黙のあと、美咲が笑う。


「ほんとに……あなたって、どうしてそうストレートなのかしら」


「嘘つけないんです。特に、あなたの前では」


ふと、美咲が顔を上げる。


照明に照らされた彼女の横顔は、どこか儚げで、そして強く美しかった。


「ねえ、悠真くん」


「……はい」


「私ね。あなたといると、時々“怖く”なるの」


「怖い?」


「感情が、抑えられなくなりそうで。理性とか、社長としての誇りとか、全部壊したくなる」


その目は真剣だった。


「だから……これ以上近づいたら……本気で後悔するわよ?」


そう言いながら、美咲が、ほんの数センチだけ距離を詰めた。


その問いかけに――


悠真は、目を逸らさずに、はっきりと答えた。


「後悔なんて、最初からするつもりありません」


言葉が終わると同時に、ふたりの唇が再び重なった。


キスは、甘いだけではなかった。

そこには、押し殺していた情熱が含まれていた。


美咲の指先が、悠真の胸元に触れ、彼の手がそっと彼女の背にまわる。


「んっ……」


喉から洩れた小さな声が、密室に響く。


重ねた唇の熱が、互いの理性を溶かしていく。


ふたりの身体が、まるで一つになるように寄り添い合い、ただ唇だけで――互いの想いを伝えようとしていた。


「……バカ。そんなふうに言われたら、もう止まれないじゃない」


「止まらなくていいです。……もう、止められないですから」


やがて、静かに唇が離れた。


けれど、ふたりの呼吸は荒く、心臓は速く脈打っていた。


美咲は、そっと額を彼の胸に預ける。


「……このまま、どこかに行ってしまいたい」


「僕もです。でも……」


「わかってる。“社長と社員”っていう現実も、“会社”という壁も……ちゃんと知ってる」


「それでも、やっぱり僕は……あなたを抱きしめたい」


その言葉に、美咲は何も言わず、ただ黙って、もう一度そっと彼に抱きついた。


ふたりが重ねた“危うい距離”。

その一歩は、もう引き返せない場所へと続いていた。


そして――


社長室のドアの外、誰かがそっと立ち去る気配に、ふたりは気づかないままだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ