第6話「危うい距離」
――恋人ではない。でも、ただの社長と社員では、もういられない。
その境界線を、ふたりは何度も踏み越えていた。
だが、社内の空気は微妙だった。
「橘くん、最近ちょっと……社長と近くない?」
「え? そんなこと……」
「別に悪いとは言ってないよ。でも、目立つのは事実」
同じ部署の女性社員たちが交わす会話の中に、悠真の名前が頻繁に上がるようになっていた。
人事担当の白石恵もまた、ある日ふと、意味深な視線を悠真に向けて言った。
「社長室に、あなたが入っていく回数……正直、多いと思う。あの人が自分から何度も声をかけるなんて、珍しいのよ」
「……必要な業務の話です」
「本当に、“それだけ”? あの人は、誰にも弱みを見せない人よ。……それがあなたには見せてる気がして、少し怖いの」
白石の言葉は、まるで探りを入れるような、どこかに嫉妬をにじませたような響きを持っていた。
それでも悠真は、迷わなかった。
――彼女に触れたい。
――彼女のそばにいたい。
――どんな代償を払っても。
そしてその夜。
静まり返った社内に残っていたのは、悠真と、美咲――ふたりきりだった。
「資料、整理してるの? 手伝うわ」
「いえ……これは僕の仕事ですから」
「……でも、私の確認も必要な書類でしょ? だったら“共同作業”よ」
「そういうことなら……お願いします、“美咲さん”」
その名を呼んだ瞬間、美咲はわずかに頬を染めた。
社長室の隅。
ふたり並んで書類に目を通す中、手と手がふと触れる。
「あっ……」
「すみません、わざとじゃ――」
「……わざとだったら?」
「……はい、わざとです」
少しの沈黙のあと、美咲が笑う。
「ほんとに……あなたって、どうしてそうストレートなのかしら」
「嘘つけないんです。特に、あなたの前では」
ふと、美咲が顔を上げる。
照明に照らされた彼女の横顔は、どこか儚げで、そして強く美しかった。
「ねえ、悠真くん」
「……はい」
「私ね。あなたといると、時々“怖く”なるの」
「怖い?」
「感情が、抑えられなくなりそうで。理性とか、社長としての誇りとか、全部壊したくなる」
その目は真剣だった。
「だから……これ以上近づいたら……本気で後悔するわよ?」
そう言いながら、美咲が、ほんの数センチだけ距離を詰めた。
その問いかけに――
悠真は、目を逸らさずに、はっきりと答えた。
「後悔なんて、最初からするつもりありません」
言葉が終わると同時に、ふたりの唇が再び重なった。
キスは、甘いだけではなかった。
そこには、押し殺していた情熱が含まれていた。
美咲の指先が、悠真の胸元に触れ、彼の手がそっと彼女の背にまわる。
「んっ……」
喉から洩れた小さな声が、密室に響く。
重ねた唇の熱が、互いの理性を溶かしていく。
ふたりの身体が、まるで一つになるように寄り添い合い、ただ唇だけで――互いの想いを伝えようとしていた。
「……バカ。そんなふうに言われたら、もう止まれないじゃない」
「止まらなくていいです。……もう、止められないですから」
やがて、静かに唇が離れた。
けれど、ふたりの呼吸は荒く、心臓は速く脈打っていた。
美咲は、そっと額を彼の胸に預ける。
「……このまま、どこかに行ってしまいたい」
「僕もです。でも……」
「わかってる。“社長と社員”っていう現実も、“会社”という壁も……ちゃんと知ってる」
「それでも、やっぱり僕は……あなたを抱きしめたい」
その言葉に、美咲は何も言わず、ただ黙って、もう一度そっと彼に抱きついた。
ふたりが重ねた“危うい距離”。
その一歩は、もう引き返せない場所へと続いていた。
そして――
社長室のドアの外、誰かがそっと立ち去る気配に、ふたりは気づかないままだった。