■第9話「わたしが“わたし”である理由」
秋の気配が深まり始めた夜、オフィスの灯りはひとつだけ、静かに残っていた。
社長室の窓際、美咲は薄手のカーディガンを羽織り、街の灯を見下ろしていた。
会議での「続投宣言」から3日。
社内は少しずつ活気を取り戻し、彼女の決断に拍手を送る者も増えてきた。だが、その反動もまた感じていた。
“あの歳まで現場にいる意味は?”
“後進に譲る選択肢もあるのでは?”
“女性としてどう生きたいのか、社長として突き進むべきなのか――”
仕事を終え、残っていた高梨有紗がドアをノックせずに入ってくる。
「……あ、いた。まさかまだここにいるとはね」
「……ちょっと、整理したくて。頭の中も、心の中も」
「……美咲。社長って、寂しくなる肩書きよね。トップに立った人しかわからない、独特の孤独」
有紗が静かに言葉を投げかける。
美咲はうなずいた。
「でも……それと引き換えに、“自分で決められる”という自由もある。だから、私はまだここに立っているの」
「……じゃあ、その“あなた”は、肩書きを失ったらどうなるの?」
その問いに、美咲は数秒の沈黙の後、ゆっくりと答えた。
「きっと、私は“妻”にも、“母”にも、“女”にも戻れる。けれど、“わたし自身”ではいられなくなる気がするの。……社長という役割の中で、私は“私”を探し続けてきた。だから、今もまだ走っていたいのかもしれない」
有紗は笑ってうなずく。
「……あんたらしい答えね。じゃ、私も引き続き、その“私”についていくわ」
⸻
その夜――帰宅すると、家はもう子どもたちの寝息で満たされていた。
キッチンには、悠真が温かい紅茶を入れて待っていた。
「お疲れ。……遅かったね」
「ごめん。……少し、自分と向き合ってた」
「どうだった?」
美咲は黙って、ソファに腰を下ろすと、悠真にそっと寄り添うように身体を預けた。
「私、やっぱり“私”でいたい。社長でも、妻でも、母でもなく……“私自身”で、ちゃんと生きていたいの」
「うん。……俺も、それを守りたいと思ってる。君が“肩書き”じゃなく、“七瀬美咲”として輝いてる姿、誰よりも近くで見ていたい」
その言葉に、美咲の瞳が潤む。
「……ありがとう。ねえ……」
「ん?」
「……今夜だけ、“肩書き”も“名前”も全部忘れて、ただの“美咲”として、隣にいてもいい?」
「……もちろん」
静かに唇が重なる。
そのキスは、いつもより優しく、深く、長かった。
「んっ……ふぅ……悠真……」
ソファに身体を預けたまま、ふたりは静かに抱き合い、肌と肌が重なる感覚よりも、心と心が溶け合う時間を大切にしていた。
「明日からも、私は“わたし”でいたい」
「うん。だから、隣には“俺”でいさせて」




