■第8話「社長退任?」
重役会議室に静かな緊張が漂っていた。
長年、美咲が率いてきた企業が、次のステージへ進む準備を始めている。
議題のひとつ――「次期社長選出の検討」。
それは、婉曲ながらも、現社長・七瀬美咲の“勇退”を促す意味を含んでいた。
「……七瀬社長。あなたがこれまで築いてきたものには、深く敬意を払っています。しかし、企業として持続可能な経営体制を……」
専務の広瀬誠一が慎重に言葉を選ぶ。
続けて、常務の古賀結花が静かにうなずいた。
「……これまでの貢献は私たち全員が認めています。ただ、今後の更なる事業拡大を考えると、“次”の形も視野に入れるべきかと」
美咲は何も言わず、ゆっくりと手帳を閉じた。
その場は一旦解散となったものの――
重い空気のまま、彼女は社長室に戻った。
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数分後――社長室のドアがノックされる。
「入って」
入ってきたのは、3人の“味方”たちだった。
副社長であり高校時代からの親友・涼子。
そして副社長の席に並ぶ重役であり、数少ない結婚の秘密を知る、古賀結花と広瀬誠一。
さらには、社外取締役として社内に戻ってきたばかりの――高梨有紗。
有紗が口火を切った。
「……誰も言わないなら、私が言う。あんな会議、流される必要ないわ」
涼子も言葉を続ける。
「社長のイスは“年数”じゃない。信頼と覚悟の重みで決まる。私たちは美咲の下でまだ走ってたいのよ」
古賀もまた、静かに立ち上がった。
「私は“退任”ではなく、“再起動”の時期だと思っています。社長が走り続けるなら、それに付いていきます」
美咲は言葉を失いながらも、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
そのとき、再びドアが開く。
「失礼します。……俺も混ぜてくれる?」
悠真が入ってきた。
彼の姿に、有紗、涼子、古賀、広瀬の4人はふっと笑みを見せる。
――この秘密を共有する、たった4人。
室内が静かになる中、悠真は美咲の前に立つと、スッと手を伸ばして彼女の指を握る。
「……俺も、辞めてほしくない。まだ君の“そば”で、君が“トップ”でいる姿を見ていたい。だって……誰よりも、その背中が好きだから」
美咲の目に、熱いものがこみ上げる。
そして、ふたりは自然と唇を重ねた。
「んっ……ふぅ……」
誰も何も言わない。
ただ静かに、そのキスの深さと意味を――見守っていた。
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夕方。自宅では、長男・翔真を筆頭に、子どもたち全員が何かを察していた。
「ママ……社長、辞めちゃうの?」
詩音の問いに、翔真が言葉を続ける。
「……辞めないでほしい。オレたち、ママが頑張ってる姿、ずっと見てきた。だから、続けて」
律真も小さく頷いた。
「ママがどんなに忙しくても、俺、誇りに思ってる。友達に“七瀬美咲の子ども”って言われるの、嬉しいよ」
澪、結翔、紗良、葵、大地――全員の思いが、美咲の胸に沁みた。
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そして、次の朝――。
出勤前、スーツを着た悠真がリビングで一息ついていたとき。
美咲がキッチンからふらりと近づき、何も言わずに悠真の膝の上に座った。
「……どうした?」
「……キス、して」
「今朝は甘えモード?」
「……お願い。……あたしに、エールをちょうだい」
悠真は微笑み、ゆっくりと顔を近づける。
「……美咲。まだ、社長続けて。……君がそうであることが、俺にとっても誇りなんだよ」
そして――
「んっ……ん……ぁ……」
熱く、深く、甘いキス。
美咲はそっと頬を赤らめて、言った。
「……行ってくるわ。“まだ、頑張ります”って言いに」
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午前10時、再び重役会議室。
全員がそろう中、美咲はまっすぐ顔を上げた。
「先ほどの提案、確かにありがたく受け止めました。でも――私はまだ、ここで“社長”として、やるべきことがあると思っています。……まだ、続けさせてください」
一瞬の静寂のあと、涼子が拍手を打ち鳴らした。
「その言葉を、待ってた」
そして、その日――社長・七瀬美咲は、“続投”を正式に宣言した。




