第5話「社長命令って、恋も含まれますか?」
社長の豪邸で交わされたキス――それは、ふたりの関係に火をつけるには、あまりにも強すぎる“感情の導火線”だった。
金曜の夜。
オフィスの時計が20時を回るころ、社内はすっかり静まり返っていた。
「――橘くん、今日、時間ある?」
その声は、周囲に誰もいないことを確認したうえで、美咲から携帯に届いたメッセージだった。
《はい。もちろんです》
《……じゃあ、今日は“社長”じゃなくて“美咲”として誘うわ。夕食、一緒にどう?》
悠真は、思わず胸を押さえた。
彼女が“七瀬社長”ではなく、“ひとりの女性”として彼を誘った。
それだけで、彼の中の何かが熱を帯びてくるのを感じた。
ふたりが合流したのは、都心のとあるイタリアンレストラン。
シンプルだが上質な空間。
広い窓の外には夜景が広がり、まるで社内では見ることのできない、柔らかな表情の美咲がそこにいた。
「……ふふ。社外で会うと、なんだか変な感じね」
「僕は……正直、ドキドキしてます。目の前に座ってるのが、あの社長だなんて」
「“あの社長”って言わないで。今日は社長じゃなくて、“美咲さん”でしょう?」
「はい、“美咲さん”」
その呼び方をされただけで、美咲の耳がほんのり赤く染まった。
ワインを飲みながら、ふたりはこれまでのこと、仕事のこと、過去の恋愛のことまで自然と語り合った。
互いの価値観がぶつかり合う場面もあったが、不思議と会話は途切れることがなかった。
「……こういう時間、久しぶりかも」
「恋人と、ですか?」
「違う。“素直に笑える時間”よ。仕事の顔じゃなくて、“私”としていられる時間」
その言葉に、悠真は思わず手を伸ばした。
テーブルの上で、ふたりの手が自然と重なる。
美咲は驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「……橘くん、あなたってほんと、ずるいのよね」
「なにがですか?」
「“好き”って言わなくても、全部伝えてくるから」
「じゃあ……今度は言いますよ。“好きです、美咲さん”」
「――バカ」
レストランを出るころには、ふたりの間にあったはずの“立場”という壁は、いつの間にか消えていた。
そして、帰り道――
街灯の下、歩く距離がふいに縮まる。
自然と肩がぶつかるほどの距離。
気づけば、悠真の指先と美咲の手の甲がふわりと触れ合った。
「……!」
「すみません……」
「……いいのよ」
そのまま、美咲が彼の手を、そっと握り返す。
「このまま……私の家に、来る?」
「……本気ですか?」
「ええ。あなたと、もう少し話したい。……それだけよ?」
「“だけ”ですか?」
「“だけ”とは、言ってないわ」
数十分後――
高台に立つ、白亜の邸宅。七瀬美咲の自宅。
豪奢すぎないが洗練された内装。シンプルでありながら、ひとつひとつの調度品に品格があった。
「コーヒー、入れるわね」
「じゃあ……手伝いますよ」
「いいの。お客さまは座ってて」
そう言ってキッチンへ向かう彼女の姿が、まるで“普通の女性”のように見えて、悠真の胸はぎゅっと締めつけられた。
ふたりで向き合って飲むコーヒー。
外は雨が降り始めていた。
「……帰れなくなったわね」
「そうですね……泊まってもいいですか?」
「何も起きないって、誓える?」
「……正直、誓えません」
美咲はふっと笑った。
「……じゃあ、責任取って」
その瞬間――
悠真が彼女の頬にそっと触れた。
「触れていいですか?」
「……もう、聞いてないじゃない」
その言葉が終わるよりも早く、ふたりの唇は熱を持って重なった。
今までとは違う。
本気の、深い、求め合うキス。
熱く、そして長く――
美咲の手が悠真のシャツにそっと触れ、彼の指が彼女の髪に絡まる。
「んっ……」
濡れた声が漏れる。
唇を離し、頬を撫で、額を重ね、また唇を探す。
まるで互いの存在を確かめるように、何度も、何度も。
「……やっぱり、私、もうあなたに“社長命令”なんてできないわね」
「逆に、僕が命令してもいいですか?」
「なに?」
「これからもずっと……あなたの隣にいさせてください」
「……それ、恋の命令?」
「はい。愛の、命令です」
雨音の中、ふたりは抱き合ったまま静かに微笑んだ。
社長と社員という関係ではなく、
“女と男”として、ようやく本当の意味で触れ合えた夜だった。