第4話「あなたを“女性”として見てはいけないんですか」
社内に噂が広まりはじめてから、美咲と悠真はあえて“距離”を取るようになった。
表向きは変わらぬ社長と社員。
それでも、互いに意識しない日は一日もなかった。
ある朝、美咲は早めに出社し、自室で黙々とプレゼン資料を確認していた。
けれど、ふと視線が止まる。
パソコンの画面には、悠真が提出した資料のグラフ。
精度の高さと構成力に、つい笑みがこぼれそうになる。
(……本当に、変な子)
その瞬間、ドアがノックされた。
「失礼します。経営企画部の橘です。資料の差し替えがあって……」
「入って」
扉が開く。
ネイビーのスーツに身を包んだ悠真が、書類を携えて社長室に入ってきた。
ふたりきりの空間。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた気がした。
「こちらが新しい資料です。収支バランスを再計算しました」
「……ありがとう。あなたって本当に几帳面よね。まるで私の昔みたい」
「……それって、褒め言葉として受け取っても?」
「ええ。とても」
そう言って、美咲は資料に目を落とす。
静寂の中に流れる、微かな緊張。
お互い、心に“昨日までと違う空気”を感じていた。
「……ところで、少し聞いてもいいかしら?」
美咲が唐突に言った。
「どうして、そこまで頑張れるの? 誰にも見られないところで、評価されるとは限らないのに」
悠真は数秒の沈黙の後、静かに答えた。
「見てほしい人がいるからです」
「……私?」
「そうです」
美咲の瞳が微かに揺れる。
「……あなたは社長です。でも、僕にとっては……それだけじゃない」
「……何を言おうとしてるの?」
「言います」
悠真は一歩だけ前に進み、まっすぐに彼女を見つめた。
「僕は、七瀬美咲という“女性”を、魅力的だと思っています」
「……!」
「社長としてじゃなく、一人の人間として……好きなんです」
社長室に沈黙が落ちた。
美咲は何かを振り払うように、立ち上がって背を向けた。
「……そんなこと、言ってはだめよ」
「なぜですか?」
「私とあなたは、立場が違う。力も違う。社内の目だって――」
「それでも、僕はあなたに惹かれてしまった。社長であることなんて、関係ないんです」
静かに、しかし強く。
悠真の声は、彼女の心に真っ直ぐ届いていた。
「……あなた、本当に……困るわね」
美咲はくるりと振り返り、言った。
「そう言われて、私が嬉しくないとでも思ってる?」
「……!」
「私も、あなたを……“ただの社員”として見られなくなってるわよ。最初からずっと」
ふたりの距離が、自然に近づいていく。
「……こんなこと、言ってしまったら、もう止まれないのにね」
美咲の瞳が潤んだ。
「俺は止まりません。止まる理由が見つからない」
「……バカ」
そう言った彼女が、ふっと笑った。
そしてそのまま――
ふたりは、再び唇を重ねた。
今度は、前回よりもはるかに濃密で、深いキスだった。
社長の唇は熱を帯びていて、触れた瞬間に悠真の体温が上がる。
彼女もまた、確かに彼を求めていた。
「んっ……」
美咲が微かに声を漏らす。
それに呼応するように、悠真の腕が彼女の腰に回る。
ふたりは、長い時間をかけて、お互いの唇の温度を確かめ合った。
やがて、そっと唇が離れる。
「……今のも、忘れてくれる?」
美咲が小さく息を整えながら言う。
「無理です。また言うんですね、それ」
「だって……どうすればいいのよ、こんな気持ち」
「なら、僕が全部受け止めます。あなたの不安も、立場も……気持ちも」
そう言った悠真の目に、曇りはなかった。
美咲は、その視線に少しだけ泣きそうな顔で微笑んだ。
「……やっぱり、あなたって“罪”な男ね」
その瞬間――
ノックの音が響いた。
「社長、失礼します。今、お時間よろしいでしょうか?」
「……っ!」
慌てて距離を取るふたり。
「すぐ出るわ!」
美咲が咄嗟に応え、整えるようにジャケットに手をかける。
「……また夜にでも、連絡するわ。直接は無理だけど……」
「了解です。メールで、何でもください」
「……変な意味に取らないでね」
「たぶん、もう変な意味でしか受け取れないです」
「……ほんとにもう」
そう言って、美咲は照れたように社長の顔へと戻っていった。
だがその背中は、たしかに“女”の姿をしていた。