第3話『秘密にしていた過去と、今の私たち』
数日後。
橘悠真は、昼の休憩を終えて社内へ戻る途中、
ふと一人の男性社員に声をかけられた。
「橘さん、ちょっといいですか」
――その男の顔を見て、悠真の動きが止まる。
スーツはよれ気味、髪も乱れたままだが、かつての面影を残すその姿。
名前を告げる前に、相手が口を開いた。
「七瀬美咲のこと……あんた、何なんだ?」
「……あなたは?」
「俺は、美咲の“元”同僚で……かつて、想いを寄せていた人間だよ」
場面は遡り――
悠真がその夜、帰宅して食事を終えた後。
子どもたちを寝かしつけてリビングに戻ると、
美咲が静かにソファに座っていた。
「……今日ね。懐かしい名前、聞いたの」
「……誰?」
「“小谷直樹”って名前、覚えてる?」
悠真は目を細めて思い出した。
かつての営業部の花形で、美咲と同じプロジェクトを担当していた男。
社内では“七瀬と小谷は特別な関係だ”という噂が流れていた時期もあった。
「……ああ。そっか、彼、戻ってきたんだ」
美咲はゆっくりと頷いた。
「昔……彼から告白されたことがある。でも、断った。
そのあと、彼は自分で異動を願い出て、しばらくして退社したの」
「……理由は、聞かなかったの?」
「ええ。でも、たぶん……彼なりの決着だったんだと思う。
そして今日、再び現れた。私が社長で、あなたが夫になったこの会社に」
悠真は黙って、美咲の手を握った。
「怖くない?」
「……少し、怖い。けど、もっと怖いのは――あなたを疑うこと。
だから私は、自分の選んだ今を、信じていたいの」
その時、インターフォンが鳴った。
ドアの前にいたのは、若手社員の佐伯里帆だった。
手には小さな箱を抱えている。
「これ、奥様に……って。先日のお礼に、手作りのケーキを」
リビングに通し、ケーキと紅茶を並べて3人で囲む。
里帆は子どもたちの写真を見て、目を潤ませた。
「私も、いつか……こういう家庭を持てたらって思うんです」
美咲は静かに微笑んだ。
「その時は、私と悠真が保証人になるわ。……ね?」
悠真も笑ってうなずいた。
*
その夜、
再びふたりきりになった寝室で、悠真は小さくつぶやいた。
「……小谷さんのこと、聞いてよかった?」
「うん。過去を知ることで、もっと今を大切にできるから」
そして、美咲はベッドに身を横たえた悠真に覆いかぶさるようにして、
優しく、そして深くキスをした。
唇を重ねたまま、ふたりは再び“信じ合う”ことを確かめ合う。
――過去を知って、乗り越える。
それが、ふたりの“今”を支える力になるのだと、強く感じていた。




