第2話『社長室と午後の支配者』
午後2時前。
橘悠真は資料一式を抱え、社長室の前に立っていた。
いつもと変わらぬドア。けれど今日は、ほんの少しだけ胸の鼓動が速い。
ゆっくりとノックし、静かにドアを開ける。
「失礼します。七瀬社長、こちら、今週分の進捗レポートです」
「ありがとう、悠真」
社長椅子から立ち上がった七瀬美咲は、白のブラウスに淡いピンクのタイトスカートという清潔感のある装い。
だが、その目には、いつもよりほんの少し――いや、明らかに熱を帯びた光が宿っていた。
「……高梨有紗さんに、会ったんですってね?」
その言葉に、悠真は一瞬、肩を跳ね上げた。
「え……どこで、どうしてそれを?」
「さっきね、彼女から連絡があったの。ふふ、“すごく素敵な父親になってた”って褒められちゃった」
美咲は近づいてくる。高いヒールの音が、静寂な社長室にだけ響く。
そして、真っ直ぐに見つめてくる。
「でもね。私は……私だけにしか見せないあなたを、今、確認したくなったの」
「……え?」
「命令よ。キスをして。……動けないくらい、私だけのあなたでいて」
それは理性も秩序もすべてを超えた、“社長としての命令”ではなく、
“女としての欲望”だった。
次の瞬間、
美咲の手が悠真の首元に添えられ、そのまま唇が重なった。
ふたりはゆっくりと、深く、長く――
だが情熱的に、息を重ね、時が止まったような感覚に包まれていく。
悠真は何も言えなかった。
何も考えられなかった。
ただ、美咲に支配され、体を委ねていた。
シャツは皺くちゃになり、髪も少し乱れて、
それでも彼女の熱が肌の奥に染み渡っていく。
唇が離れるまで、おそらく30分近く。
時計の針は、もう午後3時を指そうとしていた。
「……また夜に、お願いね」
最後に軽くキスを落とし、美咲は涼しげな笑みを浮かべながら社長室を出ていった。
ひとり残された悠真は、ぐったりとソファに沈んだ。
「……これ、仕事に戻れるかな……」
だが、すぐにタイムカードを意識し、身なりを整えて廊下へと出る。
*
自販機で缶コーヒーを買い、社員ラウンジの片隅で休憩していたとき――
視界の端に、ひとりの女性社員の姿が映る。
「……佐伯さん?」
「こんにちは、橘さん……。あの、ちょっとだけ……いいですか?」
佐伯里帆。
ふたりの関係を知る、数少ない理解者の一人。
その表情はいつになく、真剣だった。
「前に、あの……キスシーンをお願いしたこと……ずっと、気にしてて。
あれは、すみませんでした。今、思うと……お二人の絆を試すようなことだったって、わかってて」
「……いえ。僕たちも、何も隠す気はなかったですから」
里帆は、目を伏せながら小さな声で続けた。
「今度、また食事……ご一緒させてください。あの……奥様も、ご一緒に。
子どもたちも、少しだけ……見てみたいです」
そして、微笑みながら軽く頭を下げると、
そのまま彼女は静かに自分の部署へと戻っていった。
缶コーヒーを握ったまま、悠真はふと窓の外を見上げた。
どこまでも晴れた午後の空に、
“社長の隣”という立場の重みと、
“父としての誇り”が静かに広がっていた。




