第5話:知らなかった「わたし」
――療養生活5か月目の朝。
七瀬美咲は、ようやく心と身体に“静かな余白”ができていることを感じていた。
これまで、社長という肩書きに縛られていた日々。
朝は会議、昼は書類確認と承認、夜は未来の経営戦略。
週末は家事と育児と、役員との会食。
そして、子どもたち8人の名前と予定表が、脳内に常に浮かぶ――。
それが今、彼女の目の前にあるのは、
一冊の文庫本と、草木のそよぐ庭。
聞こえるのは鳥の声と、自分の呼吸だけ。
「……何もないって、こんなに……怖いのに、心地いいんだね」
ふと笑い、手紙の束に指を伸ばす。
子どもたちと悠真から届いた“おかえりアルバム”には、毎週絵日記や料理の記録、時には子どもたちが作った詩まで貼ってあった。
『おかえりって言いたいから、今日もがんばったよ』
ページの下に書かれたその文字を見たとき、
美咲の胸に何かがすっと、温かく落ちていった。
「……私、帰る場所がちゃんとあるんだ」
そのとき、療養施設の受付で呼び鈴が鳴った。
来訪者の名前は――
「相川涼子様」
*
「おーい、美咲。来たわよー。会いに来てやった感謝しなさい」
その軽口と共に、副社長・相川涼子が立っていた。
お腹は大きく膨らみ、臨月に近いのがわかる。
「……涼子。体、大丈夫なの? 来るの無理しなくてよかったのに」
「はっ、あんたに言われたくないわ。8人産んだ女に比べたら、こっちはまだ4人目よ。余裕よ、余裕」
けれど、彼女がテーブルに座ったとき、ふっと口調が柔らいだ。
「……会いに来たのはね、母として、先に“ちょっとだけ”先輩のあんたに会っておきたかったのよ」
「……母として?」
「うん。
……会社ってさ、代わりが効くと思ってた。どんな人でも誰かが補えるって。
でもね、社長って肩書きじゃなくて、“あんた自身”は、代わりがいなかったんだなって思った」
美咲はゆっくりと、目を伏せた。
「……ありがとう。
けど……ちょっと怖くもなった。戻るのが」
涼子は、そんな美咲の手を優しく握る。
「なら、ちょっとずつ戻ればいいじゃない。全速力じゃなくていい。
……でも、会社も子どもたちも、なにより悠真が、待ってるよ」
*
その夜、美咲は療養施設の窓から夜空を見上げた。
満天の星――けれど彼女には、もう「道しるべ」が見えていた。
「……もう少し。もう少しだけ、心を整えて、帰ろう。
この“知らなかった私”のままじゃなくて、“戻りたい私”で」
静かに、でも確かに――
美咲は“帰る準備”を始めていた。




