第3話「社内と秘めた視線」
社長と社員――ふたりきりの夜。
交わされたキスは、決してなかったことにはできない「感情の証」だった。
しかし、翌朝の社内は、驚くほどに静かだった。
「おはようございます」
「……橘くん、今日も早いね」
経営企画部のフロアで、悠真が朝の挨拶を交わすと、社員たちはいつもよりわずかに間を置いて返した。
だがその“わずか”な違和感こそが、何かが社内で微かに動いていることを示していた。
――誰かが気づき始めている。
それは直感だった。
だが、社会人としての経験が浅くとも、悠真の中には確かな“緊張感”が芽生えていた。
午前10時、定例会議。
社長の七瀬美咲は、いつも通り静かな足音で現れた。
だがその瞳は、昨日と同じく、どこか迷いと強さを孕んでいた。
悠真と一瞬視線が交差する――が、美咲は何も言わず、何も表情を変えず、視線をすっと外す。
それはまるで、「昨夜のことはなかった」ように振る舞おうとする意思の表れ。
(……社長……)
その後、会議は粛々と進行し、美咲は誰よりも冷静に全体をまとめ上げていた。
社内の誰もが彼女の指示に従い、悠真もまた、プロジェクトの進行役として全力で取り組む。
だが――
その様子を、一人の女性がじっと観察していた。
「……最近、よく社長と話してますね、橘くん」
昼休み、人事部の白石恵が、コーヒー片手に彼のデスクに近づいてきた。
「え? あ、はい。経営企画の資料で少しだけお時間いただいただけです」
「そうなんだ。でもね――なんていうか、社長って、人と目を合わせないこと多いのよ。特に若手社員とは」
「……そうなんですか?」
「うん。でも、あなたとだけは……視線、外さないのよね。……ちょっとだけ、気をつけた方がいいかもよ」
言葉はやわらかかったが、その目には何か鋭いものが宿っていた。
(白石さん……)
白石恵――29歳、経営人事部のエースで、美咲に憧れて入社したと言われるキャリア組。
社長と部下、という関係以上に、彼女は“七瀬美咲”という女性そのものに特別な感情を抱いている――そんな噂もあった。
午後、オフィスの空気が少し重たくなる。
会議室での報告を終えた悠真が席に戻ると、となりの席の先輩社員・横田がひそひそと声をかけてくる。
「おい、ちょっと噂になってるぞ」
「……何の話ですか?」
「社長との距離。あんなに目を合わせて会話してるの、橘だけだって」
「いや……そんなことは……」
「まあいいけどさ。あの人、社長ってより“氷の彫刻”って言われてんだぞ。気をつけろよ」
(……噂、広まり始めてる)
事態は、思っていた以上に早く進行していた。
その日の夕方。
ふとしたタイミングで、社長室の扉が開く。
「橘くん、ちょっとだけいいかしら?」
同僚たちの前で名前を呼ばれるのは、少しだけ異様な空気を生む。
(まずい……)
そう思いながらも、悠真は従うしかなかった。
社長室――
「噂になってるわね、私たちのこと」
美咲は、カーテンの閉じられた静かな空間でそう切り出した。
「申し訳ありません。僕の振る舞いが……」
「違うの。あなたは悪くない」
彼女は小さく首を振る。
「むしろ、悪いのは私。……私は、“社長”であることに、ずっと縛られてきた。でも……あなたを見てると、そんな自分が崩れていきそうで……」
言葉を選ぶように、美咲は続けた。
「……頑張ってるあなたが、好きよ」
「……!」
「ただの社長としてじゃなく、ただの女として――あなたみたいなまっすぐな人を、惹かれずにいられないの」
静かに告げられたその言葉は、悠真の胸の奥に深く響いた。
(……この人は、本気で……)
だが、同時に彼は痛感していた。
これは“始めてはいけない恋”だと。
社内での噂、人事からの視線、そして社長としての彼女の立場。
そのすべてを背負って、この恋はあまりにも過酷すぎる。
「……僕も、社長を……美咲さんを、一人の女性として意識しています」
小さく、静かに告げた。
「でも、今は……それを言うのは早すぎる。僕の立場でも、実力でも」
「……橘くん」
「だから、もっと強くなります。そうしたら、また……言わせてください」
美咲は微笑んだ。
「……そうね。待ってる。……あなたが私を“壊して”くれる日を」
その言葉が、ふたりの間にある秘密の約束になった。
オフィスのドアが開かれる前に、互いに深く息を整え、またいつもの仮面をかぶる。
だが、目だけがすべてを語っていた。
誰にも言えない。
けれど――確かに始まってしまった“禁断の恋”。