第4話:迷いと誇り――取締役・橘悠真の決断
静かな春が過ぎ、夏の気配が街を包み始めた。
七瀬美咲の療養生活はすでに3か月を越えようとしていたが、会社は一見、穏やかに動いていた。
だが、それは“美咲がいない状態”に皆が慣れつつあることを意味していた。
「……これ、社長がいたらどう判断してただろうな」
会議室を出た後、悠真は一人つぶやいた。
業績に関わる重要プロジェクトの方針を巡って、結花代行と役員陣との間で意見が割れていたのだ。
「慎重派」として進める結花に対し、若手部長らは「攻め」の姿勢を主張。
悠真は中立の立場として双方の意見をまとめていたが――内心は揺れていた。
(もし、美咲なら……)
何も言わずに“見通していた”彼女の存在が、今ほど恋しくなる日はなかった。
その夜、社内の空き会議室にいた悠真のもとに、常務の古賀結花が顔を出した。
「……悩んでますね、取締役さん」
「バレてます?」
「そりゃあ、顔が“社長不在”って書いてますもん」
結花は悠真の隣に腰を下ろした。
まっすぐな視線。父・古賀慶一の意思を継ぎ、この会社の未来を担う覚悟をした彼女に、悠真は敬意を抱いていた。
「結花さん、僕は社長じゃありません。でも、あの人が戻る場所を、壊したくはないんです」
悠真の言葉に、結花は頷く。
「知ってます。
だから私は、“戻ってくる場所”を作るつもりです。今の私なりに。
でも、橘さん――私も不安なんです」
「……え?」
「七瀬さんがいない間、もし社員たちが“今の会社が普通”って思い始めたら、
あの人が戻る場所が“異物”になってしまうかもしれない」
その言葉に、悠真は息を呑んだ。
それは、彼自身が言葉にできなかった“恐れ”そのものだった。
「だから、私たちが守らなきゃいけないのは、社長の机だけじゃない。
“あの人が信じてきた会社”のかたちなんです」
悠真は、ゆっくりと立ち上がった。
「ありがとうございます、結花さん。
……僕も、守ります。ここを“社長の帰る場所”にするために」
その夜。悠真は全役員に向けて、
“美咲不在の間は、社長の経営理念に基づく意思決定を”と明確に打ち出す提案を提出した。
社長が戻ったとき、彼女が“ただいま”と自然に言えるように。
それが、取締役として、夫としての――彼の誇りだった。
*
そして、自宅では――
子どもたちが、手紙だけではなく、**“絵日記”**を描き始めていた。
「ママ、きいて。きょう、ぼく、おそうじしたよ」
「きょうのごはんはパパがつくったカレーだった。ちょっとからかった」
「ママがいないぶん、わたしたち、がんばってるよ」
色とりどりのページが、家の食卓に並んでいた。
悠真はそれを写真に撮り、ひとつのアルバムにまとめる。
『“ママのおかえりアルバム”――その日まで、みんなで作る。』
静かな決意と、子どもたちのまっすぐな想い。
“いない時間”を、ふたりの絆が少しずつ埋めていく。




